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誰のためにお聴聞するのか

改めて人生を生きるとは、一体どういうことなのかを考えてみました。

そもそも何のために生まれてきたのか。

どうして思い通りに生きられないのに生きていかねばならないのだろうか。

若い若いと若い時には早く大人になりたいと思っていたが、いざなってみるとやらないといけないことばかりで、他人との付き合う機会も格段に増えてきて、実に面倒くさい気持ちになり、あれこれ悩んだり傷ついたりする。


頑張ればやたらと敵が増えて生きにくくなる。

頑張らねば評価されずに取り残されていく。

一体生きるとはどういうことなのかわからなくなります。

またいざ、パートナーと出会っても決して幸せとはなりがたい。ま、それは人それぞれではありましょうが、これまた思うようにはならない。


子どもが居ても居なくても不足のあるお互いですね。

居ればそれによって泣かねばならなかったり、居ないから悲観したり人の思いは千差万別である。

その中にいて私は幸いにも仏法聴聞する身にならせていただきました。


この度の報恩講においても、改めて仏法を聞くことができたことがどれほど私の人生に幅を持たせていただくことができたのか。

痛感しました。

『仏説阿弥陀経』の中に舎利弗という名前がたくさん出てきます。

これはお釈迦さまのお弟子の名前です。さて何回出てくるでしょうか。

これはお釈迦さまが呼びかけてくださる言葉です。

舎利弗ゃ、これはこうだよ。舎利弗、わかりましたか?と何度も何度も念をおしてお話しくだされたのです。


つまり仏法聴聞は亡き人のためではありません。

亡き人からの私たちへの願いであり、呼びかけを私が聞くことに意味があるのです。、是非、舎利弗の名前を自分の名前に置き換えて聞いてみていただきたいですね。すると少しずつではありますが、今私のためにお釈迦さまが説法してくださっていることに気づくはずですよ。

それを『仏説阿弥陀経』には今現在説法と言われています。

過去の話ではありません。


私が何故生まれてきたのか、何故生きているのか、死んだらどうなる私なのかを知ることができるのです。

これが仏法聴聞するということなのです。一番は生まれてきて良かったと思える私になることです。


浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、徹底的に自分を見つめ、それを掘りさげられた方であり、自分の一番大切なことを他人ごとのような顔をして済ませることができなかった、それが親鸞聖人でした。

親鸞聖人は、阿弥陀如来の教えから自分のありのままの姿を知らされ、自分の真実永遠の幸せの道を知らされ、人生をのびのびと力強く明るく生きぬかれた方でした。


自分をいい加減にはせず、真剣に考えて行かれたからこそ、その自分を支える多くの人のおかげと受け止められ、その全ての人を御同朋•御同行として共に幸せになるために人生をかけて南無阿弥陀仏を称えながら、南無阿弥陀仏のお心を説いてくださったのです。


あれこれ考え、悩むより、そこには必ず幸せになる道があるのだと思いながら、南無阿弥陀仏を人生の灯火として生きていきたいと思います。

悩んだり傷ついたりしたら是非お寺で仏法聴聞してみてください。

忙しくて参れない方はYouTubeの浄土真宗のみ教えを動画聴聞してみてください。

せっかく生まれたのに命を放棄などしないでくださいね。

この世で幸せにならない人は死んでも幸せになんてならないから。


他人事にしてほしくはありません。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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