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生かされているということ

人生の実相を見通されたお釈迦さまの教えをお聞かせいただきますと、私たちの世の中の仕組みはすべて無我であると言われます。


蓮如上人は「仏法は無我にて候」と言われました。とにかくこの世のすべてのものは「無我」というのです。

しかしながら無我とは我が無いと書きますが、「私がここに居ない」という意味ではありません。「我が無い」ということ、すなわち物は皆自性をもっていないことであり、「そのものだけの力で成り立っているものは一つもない」ということです。


もっとわかりやすく言えば、「他のものの力を借りずに存在するものは一つもこの世には無い」ということです。


例えば今ここで法話をするということを考えてみたら、話す私と一緒に聞いてくださる方がいなければ、それはただの独り言になるのです。

私たちが住んでいる世の中には「私の力だけで」できているものは一つとしてない。

皆が支え合ってこそ、ようやく事が成り立つのであります。


この支え合う、助け合う姿を仏法の上からは「無我」であるというのです。

人から生まれ」「人に育てられ」、「人に支えられ」て初めて人となって今を生きている、生かされているというべきなのでしょう。


生かされているということを俗に「恩」と言います。お釈迦さまは「恩知らざるは畜生に等し」と、おっしゃっておられます。

物は皆ひとりで成り立っているものではない」という自覚の上での生活が肝要である。

これを「知恩」(恩を知る)生活ということができるのですね。


「私が頑張っているから」とか、「私がいるからこそ」など、自分を常に考えて生きる姿はあまりに悲惨な結果を産んでしまいます。

相手を否定し、相手の自尊心すら踏みにじること、お釈迦さまが自覚しなさいと言われるのはこういうことをおっしゃっておられるのでしょう。


無我の自覚」は人間として本当に大切な営みであるにもかかわらず、「私を支えてくれるもの」、「私を私と成り立たせているもの」から目を塞ぎ、自分の力のみを誇りにして自分中心の生き方をしがちであります。


親鸞聖人は、「煩悩具足の凡夫」と言われて、人間はその本性として「我執」、我にとらわれる心が中心となった行動になりがちであると言われます。「私が、私が」の心ばかりを先にしながら物を考え、私を支えてくれる者を常に考えてはいません。「おかげさま」と言葉では簡単に言いながら、言動として相手を思いやる心が欠けてしまいがちであります。


仏法を聴聞するということは、自身の我執にとらわれて生きようとする愚かな姿を自戒し、脚元を見つめながら、自分を生かしてくださる方々のために生きていくように努めていく生活を心がけていかねばならないと昨今痛感しています。


この入間市に来て、さまざまな方々からお世話になり、助けていただき、支えていただきました。何もわからない、何もできない私をさまざまな形でここまで導いてくださいました。

せめて「恩」を忘れずに、返せる報いは今お返しさせていただこうと思いながら今こうして過ごしています。有り難いですね。

感謝、感謝であります。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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