今年最後の仏教テレフォン相談
- 超法寺の住職

- 2 日前
- 読了時間: 3分
午前中、相談員が一人少ない中ではありましたが二人で精一杯相談に対応しました。
この度も人生のお悩み相談が中心でした。
やはり本願力を知らずに生きていますと知らず知らずのうちに悩みに振り回されて、生きているだけで丸儲けを忘れてしまっている気がしますが、生きているだけで悩みを抱えたまま幸せになる道を知っていただきたいと願うばかりであります。
神仏を知っていましても、神仏に何かを頼みたいと願っているうちは幸せを知ることにはならずに、楽(らく)、苦が残ります。
これを反対にして生きていくことを知れば、苦を抱えたまま幸せとなれるのです。
神仏がおっしゃることを横っちょに置いて、私の思いを盾にしてしまうと身心がユラユラしたままとなります。
皆さま、親がどうだとか、友人がどうだとか言われますが、無駄な出会いは全くなかったのに、意に沿わないからでしょうか不足をおっしゃるのですね。ですから私とは明らかに違う生き方を過ごしているので、導くのに時間がかかりました。
そこで親鸞聖人の他人観を訪ねてみました。
⚪︎権化の人(ごんけ)
⚪︎一切群生海(いっさいぐんじょうかい)
権化の人とは、他の人は、お名号のみ教えを伝えるために、お浄土から仮の姿を現された仏(菩薩)さまである。という味わい方です。
①元より尊敬している人を、権化の人と味わう。
②私にいじわるをする嫌いな人を権化の人と味わう。
親鸞聖人は、ご自身にお名号のみ教えをお伝えされていると味わわれた人を、いかなる人でも権化の人と拝んで行かれたということができます。
一切群生海とは、すべての人間(生きとし生けるもの)のことです。
親鸞聖人は、一切群生海は、皆、煩悩のいのちを生きている、と味わわれました。
私は信心をいただくと、煩悩を欠けめなく具えており、過去•現在•未来にわたり苦悩(迷い)の世界を出られないことが知らされます。
さらにこの味わいが深まると、すべての人間は、私と同じ煩悩の苦悩のいのちを生きる存在である、一切群生海という味いに至ります。
よって親鸞聖人において、一切群生海とは、煩悩の苦悩に満ちた人間世界を表現する言葉でした。親鸞聖人は、苦悩のいのちを生きる人々に、一生涯(特に人生の後半)、阿弥陀如来さまから恵まれたお慈悲の心から、お名号[南無阿弥陀仏]のみ教えを伝えられました。
ここまでを知り、受け止められたならば、自然と阿弥陀如来さま中心の日暮らしをさせていただくことができます。南無阿弥陀仏を称えながら生活をするということであります。
ということは常に阿弥陀如来さまのお救いのままに生きていくということです。
他力の道です。
しかしながら、現代人は親鸞聖人のみ教えにご縁をいただけない方がたくさんおいでになります。その人たちは、自分中心のいのちを生きるため、煩悩の眼によって他の人を見ることになります。自分の煩悩(欲望)を満足させるための利用物(商品価値)として他の人を見ている、そのように味わいます。
人は、人生を生きるうちに、生かされて生きている事実に気づかされることが多いと思います。私は仏法聴聞を真剣にすることの中に知らされました。
この事実を私に真実を知らしめ、底がなく、滅びず、果てしなく広がる阿弥陀如来さまの智慧と慈悲のよろこびを私に恵むものこそ、親鸞聖人の南無阿弥陀仏のみ教えであります。
焦ることはありませんが、是非本を読み漁るよりは法話を聞くことを大切にしていただきたいものですね。
聞いて忘れて、忘れて聞いて、わたしゃ籠耳、お慈悲の水に今日も一日ざぶりと浸かり、ご恩よろこぶしあわせ者よ。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
◎今日は12件のご縁に遇わせていだだきました。有り難いですね。南無阿弥陀仏




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