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親孝行できたのかな

皆さまこんにちは。暑いですね。

それでも台風のおかげで風が吹いて体感温度は抑えられているようで助かります。

今年はようやく超法寺はお盆らしく明日明後日と朝からお参りに走ります。

安全運転で頑張ります。

もちろん早く出て下道で行きます。


さて実は今月五日に最愛の我が母が往生いたしました。行年80歳でした。

愚かな私に【ナンマンダブツ】をお称えしながら生きることを身をもって教えてくれた善知識でありました。

いつでも私の一番の理解者であり、私を喜び支えてくださいました。

6人の子どもを育て、6人の孫に恵まれました。(私は孫を見せてあげれませんでした)

母の臨終を往生を12人で見送ることができました。最愛の母であり、最高の坊守(ぼうもり)でもありました。

私の実家、千葉市大願寺の坊守として父を助け(母を慕う人は数知れずでありました)今の大願寺の基礎を築いてくださいました。


布教の場でも度々ご紹介しておりますが、あまりに普段からお念仏の申されない私に母はいつも「お兄ちゃん、お念仏よ」と耳にタコができるほど言うのです。

本当にたこ焼きを焼くぐらい言われました。


私が反抗期の中学生の時に、あまりに母がしつこく言うので、「お母さんは、僕がお念仏を称えたら嬉しいんだよね。じゃあ今から聞かせてあげるからよく聞いといて。」と、母に向けて、まるで母の顔にぶつけるかのように大きな声で、「ナンマンダブツ!」と言いました。

すると母は、みるみる顔を下に向けて、肩が震えていました。

あー、さすがにやり過ぎたなぁ。と、さすがに反抗期の愚かな私はお母さんを泣かせてしまったとオロオロしたのです。

謝るべきか、と思案していると母はパッと顔を上げ目には涙をためながらこう言ったのです。


「あ〜、お兄ちゃんがやっとお念仏を言ってくれたわ〜、お母さん嬉しい!」と、笑顔で万歳して喜んでくれたのです。


な、何のこっちゃ。僕は阿弥陀さま有り難いと、喜んでナンマンダブツを称えたんじゃないよ。有り難いナンマンダブツをまるでこねくり回してお母さんの顔にぶつけたのですから。


それを母は、叱るどころか、喜んでくれたのでした。呆気に取られるばかりでした。


大人になり、母にあの時のことを話したことがありました。すると母は、「何よ、お兄ちゃんがそんなことお母さんにするわけないじゃない。お兄ちゃんの布教のネタでしょう」と、またコロコロと笑うのでした。


親って何でしょうね。

不思議でなりませんよ。

これが親戚のおじさんやおばさんだったら、「そうよ、あなたはそんなことを言ったんだぞ。」とお酒を飲むたびに言われるでしょうね。


親なればこそ、母なればこそ、であります。


宗祖親鸞聖人は、『正信偈』和讃の冒頭に【弥陀成仏のこのかたは 今に十劫へたまへり 法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり】と、おっしゃっておられます。


※十劫(じっこう)「劫」は時間の単位。

一辺が四十里四方の岩の上に三年に一度とも百年に一度とも言われますが天女が一人降り立ち、衣の裾で岩を一撫でし、その時の摩擦で擦り切れ擦り切れて岩が無くなるのを一劫という。

それが十回繰り返されるくらいの時間です。


※光輪(こうりん)仏の光明のはたらきを法輪(仏の説法)をもってあらわしたもの。

すなわち、智慧の光明は教えとなって人々を照らし導くことをあらわす。


※世の盲冥(せのもうみょう)無明煩悩の衆生のことで、死ぬまで煩悩から離れられない者(私)、衆生(あらゆる命)は主に人間を指す。



暁烏敏〈真宗大谷派僧侶〉[あけがらすはや]は、

【十億の人に十億の母あるもわが母にまさる母ありなんや】と詠まれています。


ゲーテは【子を抱ける母を見るより感ずべきものはなく、多くの子と共にいる母より神々しきものなし】といわれました。


釈尊(お釈迦さま)は、【人生は苦なり】と教えてくださいます。



歩む人生はそれぞれであります。

親がいても、親を憎み、親を傷つける子もあり、親を殺す子もありますよね。

ニュースでは、親がパチンコをするために子を車中に残して死なせてしまったり、我が子を忘れてしまうようなしあわせがあるのだろうか。


我が母は、おかげさまでギャンブルもせず、暴力も激昂することもありませんでした。

確かに厳しいこともありましたが、我が子を思えばこそであったと思うのです。


お釈迦さまの【人生は苦なり】は、苦しいからこそ、その苦しみを乗り越えていく道があるよと教えてくださいます。

それを知ることなく、自ら命を絶つなどあってはならないのです。この世で幸せになれない者が、自ら命を絶ってみても決して幸せになどなれるはずはないのです。


それでは何もわからない、仏教など信仰もしていない人はどうすればいいのでしょうか。


そこについては法然聖人や親鸞聖人は、『仏説観無量寿経』に【仏心とは大慈悲心是なり】

この大慈悲心こそ如来の願心であり、慈悲の心は、一切の人々の苦悩を見抜いて、苦悩を無からしめんとする心であるので、慈悲心は、そのまま智慧•清浄心もをもととすることをお示しくださいます。


厳しい問題を抱え、苦悩を超える道を求める人に如来の願心こそ、私へのはたらきかけの最も根源であることが知らされます。

お二人の聖人の書かれたものを拝読し、聞法のお育てを受けていけば、その願心は、私を既に見抜いていてくださり、私を育て、私にはたらきかけ続けて、私に目覚めさせる大きな願いであったと知らされます。


「私を生かしめていく力」は本願力です。


この願力におまかせしていくならば、必ず苦悩の底から私を如来は引き上げてくださいます。


それこそが【ナンマンダブツ】を聞いて、【ナンマンダブツ】と称えながら生きていくことなのです。


それを我が母は、身をもって人生をかけて私に伝えてくださいました。

頭が下がります。こんな素晴らしい母の長男として55年も(実際には56年も)ご一緒に過ごさせていただきました。


感謝と恩返し、そして笑顔


お母さんが私に教えてくださいました素晴らしい生き方をこの入間市で超法寺として人生をかけて皆さまにお伝えして参ろうと思います。

それがお母さんへのご恩報謝です。


もちろん、ナンマンダブツをいただいて歩みます。お母さん、ありがとうございました。

でも、もう少し泣かせてくださいね。


阿弥陀さまは、今から十劫もの過去より煩悩の苦悩に生きている私に【目覚め=南無阿弥陀仏を称えてくれよ】と、喚び続けていてくださいます。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏


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