浄土真宗は聞く宗教
- 超法寺の住職
- 13 分前
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お聴聞大事にしているのが浄土真宗ですが、現実には悲しいかな「ご住職、法話はなるべく短めにお願いします」と言われることがあります。実に悲しいことですね。
ではなぜ聞かねばならないのでしょうか。
それは「明るく力強く生きていきたい」からです。この世は娑婆であります。
娑婆とは耐え忍ばねば生きられない世界です。
中でも人間の根本苦であります老病死の苦悩は、仏教を開かれたお釈迦さまの時代も何ら変わることはありません。
愛する人と別れ、自分より先に死ぬな、と如何に叫ぼうが、縁が尽きたならば別れねばならないお互いであります。不安、悲しみは解決できません。
お釈迦さまは、この苦悩から免れる道は、如何に金、地位、名誉、財産、健康があっても不可能だとおっしゃっています。
唯一つ、この苦悩を生かして行く道を学ぶより他はないぞ、と言われます。
ただ念仏して弥陀にたすけられ生かされる道より他は無いよ、と説法されました。
大無量寿経の説法に、「老病死を見て世の非常を悟」また「もろもろの法楽をもって三苦を救療(くりょう)し、道意無量の功徳を顕現す」、更に「もろもろの生死勤苦(しょうじごんく)の本を抜かしめたまへ」と法蔵菩薩の誓願を述べ、そしてその誓願は遂に成就して、苦悩の迷いの衆生を救うに間違いない南無阿弥陀仏の仏となり、【今現在説法】と、時•処を超えてはたらき通しであります。
苦悩の中に埋没しながら、「豊かになりたい、幸せになりたい、長生きしたい」などと生きている私に、あなたは無明煩悩の迷いの業人だよ、だから目覚めてくれよ、まかせてくれよ、南無阿弥陀仏を称えてくれよ、と声のするところにおられるのです。
母の声のするところに母がいます。
「こら出るなというに、また出たか、出どころが無くて口に出た、南無阿弥陀仏と口に出た」
〈浅原才市〉
才市さんは、摂取不捨の利益(りやく)にあずかっている喜びを言われています。
親鸞聖人は、「念仏申さんとおもひたつ心のおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」と喜びを述べておられます。
⚪︎お念仏を申しての救いではありません。
◎念仏を申そうと思いたった後、既にその前に逃げるものを逃さじと後から追いつかれ、はがいじめされている身、無条件の救いの中にある私であったと振り返っての慶びを説いています。
感謝•慚愧(ざんぎ)の人生道でありました。
わからんまんま、願いのまんまに救われて行く私であります。
それは変われない私に、阿弥陀が変わるからまかせよ、救うのはたらきがあるからであります。そのおいわれを頭で理解するのでは無く、身心を通して受け止めるためにこそ、お聴聞を重ねて生きて行くことが大切なのです。
親鸞聖人は90年の人生を聞いて生きていかれました。
私はまだまだ40年あまりです。
まだ間に合うかな、間に合わないようなら、せめて我が口に南無阿弥陀仏とお念仏を声に称えられるようになりたいものです。
しかし、なかなか声に称えるのは簡単ではありません。
阿弥陀如来の誓願を受け止めねば、この口から南無阿弥陀仏は出てきませんからね。
心で称えるお念仏は正しくはありません。
それはなぜか?
お聴聞すればわかります。
他人事ではありませんよ、私の問題だからこそ聞いてみてください。求道は大切ですよ。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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