地獄行きの自分に気づかずして極楽などない
- 超法寺の住職
- 6 時間前
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地獄については、源信和尚の『往生要集』をもとにしています。『往生要集』は文字通り極楽浄土に往き生まれるための要文を集めたもの、そして念仏によって救われる往生浄土のススメであります。
それなのに『往生要集』で取り上げられた地獄の内容があまりに衝撃的であったがために源信といえば「地獄」という印象を植え付けてしまったようであります。
『往生要集』は、地獄餓鬼に始まる六道を中にした、厭離穢土(えんりえど)、欣求浄土(ごんぐ)、極楽証拠、正修念仏、助念方法、別時念仏、念仏利益(りやく)、念仏証拠、往生諸業(しょごう)、問答料簡の十門(章)に分かれています。
わかりやすく言えば、浄土往生への願い、阿弥陀如来の救済と功徳、念仏三昧の実践です。
念仏は、南無阿弥陀仏であります。
阿弥陀如来を信じ敬う(南無)、源信和尚が『往生要集』を著したのは、念仏をすすめるためであります。
往生の業は念仏をもって本と為す、と書いておられます。
「業」は、生前に私が重ねた原因の結果である。つまり「煩悩」の中に生きた結果であります。そこで私たち人間は、人として生きていく上で、意識する、しないにかかわらず「罪」を犯しています。
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そうすると死後は地獄です。
人間として寿命を全うしたとき、浄らかな仏の国[極楽浄土]へ生まれるようなタネは実は全くまかずに生きてきたのであります。
こんなことを言うとかなり反論されるでしょうか。しかし例えばボランティア、チャリティ番組でも、タイトルは無償のように見えてもMCや出演者は高額のギャラを貰うし、マラソンを走ってもやはり驚くほどの高額ギャラを手にしています。このようなチャリティ番組をしているのは、お恥ずかしながら日本だけであるそうです。
無償の「善行」のために罪を犯す結果を招くのも人間であります。社会奉仕を食い物にして視聴者や募金運動に協力した人たちを嘲笑うような出演者たちの笑顔は、まさに醜い欲望の世界なのであります。このことから目を背けてはならないのです。
欲望、仏教では「煩悩」という。貪欲、瞋恚、愚痴の「三毒の煩悩」をいう。
貪欲は、貪りの心。瞋恚は、怒りを指します。
愚痴、我が我がという心であります。
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この煩悩こそが地獄行きのタネ
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煩悩を断ち切ることができなければ、来世を悟りの世界に求めるならば、何かそのために他に原因がなければなりません。
源信和尚が往生の業(原因)は念仏をもって本と為すとしたのはここであります。
念仏【南無阿弥陀仏】は、阿弥陀如来のもとに完成された最高至上の「善」であります。
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煩悩を死ぬまで持ち続ける人間には、この阿弥陀如来のお誓い(誓願)にしたがって、素直に、有り難くいただく他にはないのではないでしょうか。
これこそ源信和尚が『往生要集』でわざわざ地獄、餓鬼から説き、そして念仏を勧めた真意はここにあったのでしょう。
それなのに、地獄の話を聞いても無反応、中には笑いながら聞いている人がいるのだから悲しくなりますね。
地獄は私が作り、私が堕ちる地獄世界。
これは、何となしに仏法聴聞してもなかなか気づけないものですから、仏法聴聞すらされない方に別れというのもまさに難中の難なのでしょうね。だからこそ、阿弥陀如来のご苦労は計り知れないものなのでしょうが、阿弥陀如来はそれでもそれでもと親心を持ちながらあの手この手で私に喚びかけていてくださいます。
親鸞聖人は、報土往生多からず、化土往生少なからずとおっしゃっておられます。
阿弥陀如来の誓願は、私を報土往生させたいという願いなんだとお聞かせいただきたいです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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