なるようにはなるよ
- 超法寺の住職

- 2025年9月20日
- 読了時間: 3分
更新日:2025年9月21日
やはり台風と共に激暑は過去のものとなりましたね。
それでも晴れるとそれなりに残暑を感じます。
季節の変わり目は毎年このようなものです、忘れてしまうだけです。
生きていくのにはさまざまなことが私に避けることのできない無常を教えてくださいます。超法寺としてもこの頃は僧侶派遣業者からの依頼がすっかり無くなってしまいました。うーん、何かやらかしてしまったのでしょうかね。
あの新型コロナ禍の時以来のダメージが襲っています。
コロナ禍の際には業者が頼りでしたので夜も眠れないほど悩みました。
どうすればいいのかすらわからずに、廃業すら現実味を帯びていました。
それもお国のお助けにより辛うじて踏ん張ることを許されました。
その後しばらくは少しずつですが法務の依頼が増えて寺院活動にも勤しむことができました。今現在も新型コロナ禍は収束してはいません。
緊急事態宣言が出たらもう凌げないかもしれないけど、立ち止まることは許されません。前を向いて行くしかないのです。
やれることは自分では手を尽くしてきたと思います。
これ以上は新規にはやれる気がしません。
これまで積み上げてきた私らしさを実践して行くしかありません。
そういえば宗祖親鸞聖人が詠われた「明日ありと思うこころのあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」、無常の姿を桜の花に例えられました。
『歎異抄』には、「なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて力なくおはるとき、かの土へはまいるべきなり」と言われています。
私の好きな詩人、小林一茶さんは、「美しや障子の穴の天の川」、「いざさらば死にげいこせん花の雨」、「死に支度いたせいたせと桜かな」、一茶さんの臨終の句と言われています。
若かろうと元気であろうと死は必然で、生こそ偶然なのであります。
逆に考えてはおられませんか。
死ぬ時に私には何が必要なのでしょうか。
身体の苦痛をできるだけやわらげてほしいこと。
心の苦悩が安らぐ救いがあること。
この二つが必要ではないかと思うのです。
身体の苦悩をやわらげてくれるのは医療(病院)であり、心の苦悩を助けてくれるのは宗教(お寺)でありましょう。
無信仰の人は、生きることの工夫ばかりで、頑張っても必ず命を終わっていかねばならないというのに死ぬ工夫をしていないように感じます。
死んで終わって行く人生がいいのか、死んで往生して行く方がいいのか、ここが分かれ道ですよ。
信仰、特に南無阿弥陀仏のお念仏に遇わせていただけている人には「法悦」があります。ましてや「倶会一処」(くえいっしょ)の念仏者であれば、こんな安心なことはありません。
「散る桜 残る桜も 散る桜」
「泣く泣くもよい方を取る形見分け」
「人や先 我はまだまだ通夜の客」※これはインパクトありますね。
死ぬ工夫を忘れるということは、死が私の問題となってはいない証拠であります。
悩んでも大騒ぎしてみても、結局なるようにしかならない我が人生。
某ドラマの主題歌には、「運が悪けりゃ死ぬだけさ」とありました。
仏教の教えの上なら、「縁が尽きれば往生して行く」ことであります。
だからこそ、苦悩のまま仏さまのみ教えを仰いでいくのが肝要であります。
悩みながら、それでも超法寺の私を信頼してくださる方が居られるうちはこのまま
踏ん張って行くしかありませんから。
そう思いながら南無阿弥陀仏と口にお称えしています。
なるようになる。そう思っていたら、なるようにはなる。
恩師、松林宗恵さんが生前おっしゃっていました。
このままどこへ向かうのかは阿弥陀さまがご存知でありますから安心ですね。
すみません、愚痴になりました。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏


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