摂取不捨の世界
- 超法寺の住職

- 9月24日
- 読了時間: 4分
私たちは常に「こうして欲しい」、「こうなりたい」と願うものですね。これが「欲」であります。しかしながら仏教の精神では、「少欲知足(しょうよくちそく)」と言います。
この無常世界は思い通りにはならない迷いの世界です。思い通りにならないのに、思い通りにしたいという欲望によって周りを苦しめ、自身も苦しんでいきます。
私もお参りをさせていただく中に感じるのですが、皆さま、故人さまの遺言では無いでしょうが、「死んだらこうして欲しい」と残す方がおられます。我が両親は何も言わずにそのまま亡くなっていかれました。ただ二人とも生きていく中で常々、語り続けていた事がありそれを私はきちんと受け止めていますので安全です。
阿弥陀さまを仰ぎながら「南無阿弥陀仏」を称えながら生きることを大切にしていました。
子どもは親の言うことを大切にするものです。
ただそれが正しいかどうかはあまり語られてはいないのでしょうか。
違います、祖父は「わしらはな、南無阿弥陀仏申してのう、阿弥陀さまのお作りくだされたお浄土に参らせていただくんだからのう」と、生前常々私に言ってくださいました。
また祖母は毎年の年賀状に大きな字で「南無阿弥陀仏」と書いて送ってくれていました。
私は大層しあわせなものでしたね。
これだけ多くの人たちが私の生きていく道を明らかにしてくださいました。
その上で、毎年お寺に来られるご講師も、親鸞聖人のお心をやかりやすく柔らかくお伝えくださいました。ですから、どんなに辛くても苦しくても生きていける道をお聞かせいただくことができているのですね。
今は亡き永六輔さんが著書の中で、お母さまの遺言を紹介しておられますね。
皆さまもご存知のように永六輔さんは浄土真宗のお寺の出であります。お母さまも大変有り難い方だったそうです。
永六輔さんは、お母さまの遺品を整理していましたら、「母の遺言」を見つけられだそうです。大変嬉しかったそうです。
皆さまは、親が亡くなって何か悔いはなかっただろうかとか、あれもしてあげられたらよかったかな、などと思われなかったでしょうか。
私もありましたが、我が両親は南無阿弥陀仏をいただく人てしたので安心ではありました。
母の遺言
南無阿弥陀仏
皆さまには大変長らくお世話になり誠に有難うございました。私は喜んで、安心して、お浄土に参らせていただきます。合掌
永登代
こう書いてあったそうです。
浄土真宗のみ教えに遇えた人は、こういう遺言を残したいものだと思いました。
私の先祖代々は浄土真宗ですとはよく聞きますが、私は浄土真宗の門徒ですという、そんな人はあまりお会いできていない気がします。
是非、お子さんやお孫さんを大切に思えばこそ、このような言葉を常に口にして生きていける、そんな人になって欲しいと思います。
「浄土真宗の生活信条」には、
み仏の誓いを信じ、尊いみ名を称えつつ、強く明るく生きぬきます。
み仏の光をあおぎ、常に我が身をかえりみて、感謝のうちに励みます。
み仏の教えにしたがい、正しい道を聞きわけて、まことのみのりをひろめます。
み仏の恵みを喜び、互いにうやまい助け合い、社会のために尽くします。
これを唱和して、こうなれるように努力することこそが、ご先祖さまがお喜びくださる私になれるのではないでしょうか。
これがなかなか皆さまに伝わらないことが私が常々感じるモヤモヤであります。
しかしだからと言ってお伝えしないことはしません。
阿弥陀さまはもっと遥かに昔から私たちのしあわせを案じてはたらき続けておられるのだから。阿弥陀さまのご苦労に比べれば大したことではないのですよね。遇わせていただけた安心感は、いただけた人にしかわかりませんよ。
ですから、聞いてわかる事ができる人間に生まれさせていただけたのですから聞いておかなければならないのでしょうね。
聞かずに自分の殻に閉じこもって生きているのは、木を見て森を見ずのようなものなのかも知れません。あらゆるものが縁となって私を仏縁に誘ってくださっていることを忘れて生きてはなりません。だからこそ、お彼岸は昔から暑さ寒さも彼岸まで(近年は変わってきましたが)と言われて、過ごしやすい時期にお寺へ参って仏法聴聞する機会を設けてくださったのでは無いでしょうか。
皆さまは、この度のお彼岸はお寺へ参って仏法聴聞させていただけましたか。
ご先祖や故人を偲ぶならば忙しくても怠ってはなりません。自力では安穏な道などありはしないのだから。大事にしてください。
今日はまた暑くなりましたね。
布団を干しますかね。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏




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