top of page

我執(がしゅう)がさまたげにならない道

いやはや激暑の八月が終わろうとしていますね。蝉の賑やかな鳴き声から夜にはコオロギや秋の虫たちの賑やかな鳴き声に変わってきました、まさに秋の装いですね。

このように実に慌ただしいのが娑婆世界の姿であります。


俳人、小林一茶さんは念仏者でありました。

炎にも似た曼珠沙華の一輪が咲いているのをみて、これから参らせていただきます西方浄土に合掌されて、このような詠を読んでいます。


秋風や西方極楽浄土より、なむだ仏なむあみだ仏まんじゅさ花


ただのお墓参りに終わらせては実に勿体無いですよ。仏法を聞いてください、お寺に足を運んでくださいとの、ご先祖からのお願いを聞いてください。それこそが日本にしかない仏教行事、春秋のお彼岸であります。


蓮如上人は『蓮如上人御一代記聞書』に、

仏法には、万(よろず)かなしきにも、かなはぬにつけても、なにごとにつけても、後生のたすかるべきことを思へば、よろこびおほきは仏恩(ぶっとん)なり。


[現代語訳]

仏法のお育てを蒙って(こうむって)いる者にとって、世間の万事について、悲しいことにつけ、また望みかなわぬことにつけ、すべて何事も、この思うままにならないという苦悩を通して、後生の助かるべき道は念仏であると思い知れば、まことに喜び多きもの、それは仏恩である。


お釈迦さまは、生老病死の四苦に、愛別離苦•求不得苦(ぐふとっく)•怨憎会苦•五陰盛苦(ごおんじょうく)を加えたハ苦とし、「一切皆苦」の人生であると説きました。


これらは自分の思う通りにならないという苦悩(心と身体)を言い、全て私たちの根源的煩悩たる我執(がしゅう)から起こります。

我執とは自分の思うままにしようとする煩悩のかたまりだからであります。


蓮如上人は【仏法には無我と仰せられ候ふ】


苦を超越する「苦滅」の念仏を明かされました。お釈迦さま以来、「苦滅」が「悟り」の内容だったからです。

我執を打ち砕く仏智の念仏に依るということを、「後生のたすかるべきこと」と仰せになったのです。


仏智におまかせして我が人生を南無阿弥陀仏を称えながら生きていく念仏生活をしていくからこそ、我執がありながら我執がさまだけにならない、そして我執がはたらかなくなるのも、阿弥陀如来の他力本願のお慈悲の中にあるからこそなのであります。


このことを「喜びおほきは仏恩なり」と蓮如上人はおっしゃるのです。

『正信偈』に親鸞聖人が誉め讃えておられる七高僧の方々は、他力の念仏が信心による悟りの道であることをら明らかにされています。

仏教は念仏である】と親鸞聖人がおっしゃったのは、このことであります。





コメント


bottom of page