忍者のような方からの警告
- 超法寺の住職

- 12 分前
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おはようございます。
しばらく暇な毎日を過ごしていましたが、ここへ来て少しずつですが法務の依頼をいただけるようになり、車に乗る機会が増えてきました。
年々ですが長距離運転が身体に堪えるようにもなりました。
今週は都内に始まり横浜市、明日は栃木県までかなりの長距離運転であります。超法寺は薄利ですので極力国道を走っています。
さて昨日の帰り道、何気なくフッとミラーを見ると赤いライトがクルクルと見えました。
「あ、スピード違反か」と、何キロ出していたかはわかりませんが自分だと思って車線を変えようとしましたら白バイの赤いライトは消えました。「あ、警告だったか」と胸を撫でおろしました。
いけませんね、お参り後って気が緩んでいるからついスピードを出してしまいます。
それから緊急自動車(パトカー、白バイ)は死角を走るのが得意ですから油断は禁物です。
生前父が「屁ひとつだぞ」と言ってくれていました。まさに一瞬の気の緩みが大変な事態を招いてしまうのですね。
このように私は常に私利私欲に振り回されています。この度のように警告で済んだら安堵し、切符を切られたら文句や愚痴を言うのです。
いつも苦しみの原因を他人に転化したり、他人を踏み躙ったりして生きています。
開かれた世界ではなく、閉ざされた暗く恐ろしい世界であります。
だからこそ仏教を開かれたお釈迦さまは、苦悩に満ちた十方衆生(いのち)を救済される阿弥陀如来をおすすめになられたのです。
十方衆生とは、四方八方に上下を加えて十方と言い、衆生とは、生きとし生けるものすべてを言います。
この世で漏れるものがない。
ひとり残らず救い取りたいと言う願いの仏さまであります。
親鸞聖人は、阿弥陀如来からたまわる「他力の信心」こそが、仏さまにならせていただくお救いであるとお説きくださいます。
これは私たちが言う「信じます」ではなく、阿弥陀如来から賜わる「信心」なので、疑いやはからいが取り除かれた心ですから、阿弥陀如来に願われた私と気づかされ、阿弥陀如来の願いに委ねることであります。
生きているということは、さまざまなことがあります。無いことをどんなに願ってもなるようにしかなりません。私一人で生きているのでは無いということを忘れずに今日も生きていきたいですね。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
追伸 しばらく体調を崩してブログ更新を忘れていました。まだ思わしくありませんが頑張っていきます。南無阿弥陀仏




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