成道会、お釈迦さまが何をお伝えくださったか
- 超法寺の住職

- 9 時間前
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阿弥陀さまは、あらゆる命を救いたいという本願の誓願を建てられました。
南無阿弥陀仏の六字にすべて込められて「声」のはたらきとなって私たちに届いていてくださいます。
それをただ、そのまま受け止め、受け入れるだけで阿弥陀さまのお慈悲のおはたらきにより煩悩を抱えたまま往生することができるのです。
しかしながら悲しいかな、その煩悩は素直に受け止めることを良しとしないのか、はねつけて、自己の欲に埋没して生きていくようになりがちであります。その上で「死ねば仏」などという身勝手な解釈となってしまったり、『般若心経』が良いと思ってしまったり、『マヌ法典』がまるで真実であるかのように誤解して生きていくような親に背を向けていく姿になった挙句に「お聴聞不要」などと言うようになって阿弥陀さまや親鸞聖人を否定している有様であったりします。
皆とは申しませんが、これこそが門徒もの知らずであります。
「お聴聞を大切にしている門徒でありながら、物忌知らずです。」というお恥ずかしい言葉すら出てしまいます。
広島県は昔から安芸門徒というほど、他力念仏を大切にし、仏法聴聞を生活の基本にしておられますが、昨今では、「私は安芸門徒ですから」といいながら、お念仏も申さず、法名すら必要とされないでいたり、他力の意味すらご存知なかったりする言葉を聞く機会が増えたように感じます。
浄土真宗は、やはり真摯に仏法聴聞を旨として生きていかねばならないと私は思うのです。
報土往生多からず、仮土往生少なからずと言われた親鸞聖人の嘆きはお聴聞を良しとしない今の生活習慣にあるのでは無いでしょうか。
以前流行りました『千の風』は私たちに何を語っているのでしょうか。
往生するとは、亡くなって骨になっていくのではありません。
生まれていくのです。
つまり南無阿弥陀仏にならせていただいて、あらゆる命を仏にならしめるお仕事をさせていただくのです。
それが身心からわかるまでお聴聞することが私たちがすべきことなのです。
煩悩を断つことも、修行すらできないまさに地獄行きしか道のない私たちを何とか救ってやりたいという阿弥陀さまの親心を知ることが、私たちがご先祖にさせていただく、ご供養なのです。
また年末年始のしめ縄、飾りは魔除けでありますから、もちろん阿弥陀さまを仰いでいる私たち念仏者には用事がないということをもう一度考えてみたいものです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏




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