[冥加]蓮如語録
- 超法寺の住職

- 2024年2月28日
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おかげさまで良いお天気に恵まれました。
お洗濯日和で有難いですね。
さて朝の続きです。
《人はそらごと(空事)申さし(じ)と嗜むを
随分とこそ思へ 心に偽りあらし(じ)と
嗜む人はさのみ 多くはなき者なり 又よき
事はならぬまて(で)も 世間仏法共に 心
にかけ嗜みたき事なり》(聞書248)
意味は、人は嘘をいうまいと心がけているだけでも、よく慎んだように思っています。
まして心に偽りを抱かぬように慎む人は、そう
多くはない。またよいことは容易にできないまでも、世間のこと、仏法のこと、いずれにおいてもよいことをしたいと心がけたい、嗜みたいものである、と蓮如上人はおっしゃっているのです。
つまり世間のことに関しても、仏法のことに関しても、良いことをしようということは、しょせん、仏智に立ち戻って、仏智に育てられた結果なのであります。良いこととは自分の心で良いというものではなくて、仏さまの智慧に基づいてあらゆる事柄を処理するのでありますから、己が計らいというものはなくて、すべて計らいを離れた智慧の世界の中で、己が振る舞いが自ずとなされてくるということであります。
蓮如上人は、そうした嗜みの根本は仏智にあるのだと申しますが、そのことを別の言葉で[冥加](みょうが)、冥々の加護という言葉を使い表現されています。
《一心に たのみ(頼)奉る機は 如来のよくしろしめすなり 弥陀の 唯しろしめ(知る前)やうに 心中をもつ(持つ)べし 冥加をおそろしく(恐)存すへきことにて 候との
義に候》(聞書83)
真実信心(他力)を得ている(いただく)人を、如来はよく存じである。阿弥陀如来がご存知であるということを、その人(真実信心を得ている人)は心得て、自らの心中を保つべきである、嗜むべきである。
つまり仏さまに見られているという自覚の上から嗜みの生活が始まるという意味である。
そして、自分がわからなくても常に如来さまが加護してくださっていると、恐れかしこむ心がけが大切であるというのであります。
《朝夕は 如来聖人の 御用にて候あひた(間)冥加のかたを ふかく存すへき由 折々 前々住上人 仰せられ候 由に候》
(聞書78)
冥加の生活は、一日中、朝夕通じての生活でなければならないというのであります。
つまり恵みに生かされている生活という意味であります。
《冥加に叶(かなう)といふは 弥陀をたのむ
事なるよし 仰られ候》(聞書206)
冥加に叶うということは、つまり冥加に報いるということは、弥陀をたのむことである。
※この場合、(依頼)ではなく、阿弥陀の願い(ご本願)を私が聞くことを言います。
宗祖親鸞聖人は、【馮】という字をあてました。
【馮】とは、【たよりにする、あてにする、また信頼する】といういみで、お願いするということではありません。
他力は[仏さま、助けてください]ではありません。阿弥陀さまの願いを煩悩具足の凡夫たる私が聞くことを言います。
つまり、そのまま阿弥陀さまへのご恩に報いることに他ならないのであります。
解釈間違いをしないようにご注意ください。
皆さまの多くが他力の受け止め方がこちらから仏さまへのお願いとか、口の悪い方は、[仏は放っておけ]などと言っていますが、そうではないのです。
こちら(私)がいらんことをしないことなのです。余計なこと、自分勝手な解釈、間違った偏見のことを言います。
私(我)がではお救いはございません。
阿弥陀さまのおはたらきにおまかせしてこそ、お救いに遇えるのです。
ぼんやりと聞くのではありません。
真摯に聞く私(我)になるために【仏法聴聞】させていただくのです。
大切にいたしましょう。
南無阿弥陀仏




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