皆さま、こんにちは。雨は上がりましたが寒いですね。先程、荷物を運んだのですが思い切ってクリーンセンターで処分をお願いしちゃいました。よう考えたら今お荷物になっているんだから、きっと新居でも同じくそうなるような気がするよ。¥400でスッキリしました。
おかげで今日は新居へは行かずに済みましたよ。まだまだありますからね、でもこのペースなら何とか今月中には2階がスッキリしそう。
頑張らねば。することはたくさんあるので。
さて、ある方の投稿を見て考えさせられました。
死ぬことのありて安堵や老いの冬
あぁ、私も死ねるんだよな。
でも急ぐことはありません。この世に生きることを許されたこの命、苦しくても悲しくても、身体の苦しみがあっても、心の苦しみがあっても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏が私にはある。
これは頼もしいですね。
お念仏を称えながら私と一緒に苦しみ、悲しんでくださる阿弥陀さまとご一緒の毎日です。
称えられなくても阿弥陀さまは【摂めとって決して捨てない】大悲心で私たちを包みこみ、抱き続けてくださいます。
その阿弥陀さまにぜ〜んぶ、おまかせして「今」を大切に生きていけばいいんですよ。
私たちは嬉しくて、飛び上がるほどになれたら「有難う!」って声にするはずです。
それが起これば、称えよう、称えなきゃって思わなくても自然にこの口から南無阿弥陀仏の声が出てくださいますから。
大人である私たちがすべきこと、それは子どもや孫(私にゃいませんが)、親しき人たち(これは有難い、います)に今の私の姿を見せていくのです。「老い」たる姿を、「病」に苦しむ姿を、ケガをして痛がる姿を、命終わっていく姿を見せておくことが大切だと思います。
私は母の亡き生前を動画で残しています。
私の番の時に思い出しておきたいから。
それこそが、縁ある人を導き育てる。見せない選択より見せる選択をすることで、きっと子どもや孫に死に往く世界を伝えることができるように私は思うのです。
念仏の人は、お浄土に生まれ仏になる功徳も、仏となって迷いの人々(迷っていることにすら気付けない人々)を導き救うという功徳も、既に我が身にいただいているのです。
無始流転の苦を捨てて、無上涅槃を期する。
やがて終わるのです。
人生の終わりを縁として、お浄土に生まれ仏になる。それを知らねば人間に生まれた本当の意味を知らずに空い人生となります。
それは勿体無いですよ。
死ぬまでは死にませんよ。
その時が来るまでに愚痴のこの口が南無阿弥陀仏、ナンマンダブツと声になっておけば、後は静かにその時を待てばいいのです。
私が私を見捨てても、私の身体は最後まで私を生かそうと頑張ってくださいます。
そして死ぬのは、私が抱えている煩悩(欲)が死ぬのであり、私はお浄土に生まれさせていただき、二度と輪廻転生しない仏にならせていただくのですから。阿弥陀さまの誓願は私を思えばこそのおはたらきでありますね。
南無阿弥陀仏
だからこそ、大切な人との最後の場に小さな子どもさんもご一緒させたいものですね。
そして温もりと冷たい肌をたくさん手に触れさせてあげましょう。そうすればきっと「命」の大切さを感じる人間に育つはずです。
ゲームとは違うんだ。リセットボタンを押しても生き返らないということを知るでしょう。
そんな子どもを育てていくのも大人(親)の大切な務めではないでしょうか。
私は常々そう思っています。
ナンマンダブツ