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人生は人間学校

「周囲の人に迷惑もかからず御法義に疵(きず)もつかぬことなら、私は自殺したい」

これは身の上話をしたあとで、大抵の人がいいそえられた言葉です。


この世を無事なもの、平穏なものと、かねて思うていらるるから、たまたま苦しい事に出会うと、自分だけかと思い僻んで(ひが)そんなスネ言葉を吐かれるのであろうが、苦しい事や悲しい事は誰にもある。

珍しいことは少しもない。

堪え難い苦しみ、忍びがたい悲しみの一つずつが人間学校の進級試験である。


いかなる難問題に出くわしても、狼狽(ろうばい)せず、ジッとおちついて工夫しているとよい答案を考え出すものである。


一級ずつ進んでゆくうち、ついには一本縄や二本縄ではピリッとも動かぬ境地に達し得てニコニコ笑いながらもの慣れぬ下級生を導いてあげる身分になったら随分面白いことであろう。


人生の面白味も、仏教のありがたみも、ほんとうは老境に達してからはじめて理解(わかる)のである。

なんにもわからぬ若いうちに死ぬるものはおしいことである。自殺どころか、皆さん御身を大切にして八•九十までいきてください。

       (『草かご』甲斐和里子)


人生の挫折から自殺願望をする人間への、和里子さんの応援随筆です。

若い人には何度も何度も読んでいただきたい。

あなたの命はあなただけのものではありません。砂の数ほどの人々の手を借りて生きてきたのです。あなたの力だけでここまでいきてきたのではありません。

その借りを返す前に、またあなたの命そのものも必死に生きていきたいというのにそれをあなたの短絡的な感情で放棄しては勿体ないし、また死んでも決して楽にはなりません。

この世でしあわせになれないものが、死んでしまっても楽には決してなれません。

これが真理であります。


「死」という関所

親鸞さまも、父も母も兄も弟も、その他の善い方々も皆いらっしゃるお浄土の皆さんにお会いする方が先かもしれません。

お浄土の皆さんにお会いするには、私の一番嫌いな「死」という関所があるのに、それは少しも問題にしておらぬ、面白いことである。

洗濯を中止して駆け上がり御扉を開いてお念仏した。(『草かご』甲斐和里子)


死が嫌い、それは恐ろしい検問所があるから、と「死」を嫌った和里子さんがこの随筆を書いたのは昭和十一年(一九三六)二月二十六日、六十九歳のときであった。

お念仏の人生をゆく和里子さんは「死」を浄土往生の当然の道程として納得しており、恐れたり嫌ったりしているのは実に意外です。

しかしこれほどに「死」を嫌う感情こそ人間らしい和里子さんの一面をみせており、「死」が嫌いと決めつけながらお念仏の中で「死」を覚悟し肯定しようとするその心の潔さが素晴らしいことです。


私たちは、死ぬまで煩悩(欲望)から離れられない凡夫でありますから、どんなに一生懸命生きていても、どんなに順調に生きられても必ずこの苦しみ、悩み、不安、妬み、愚痴、腹立ちからは開放されることはありません。

また、誰もかれもやはり自分のために生きています。これは夫婦だろうが、親子だろうが、兄弟であろうが、親友であろうが、恋人であろうが、皆自分が一番大切なのです。

だから必要以上に当てにしてはいけません。


当てにできないのに、「あの人だけは間違いないと思っていたのに」とか、「あの人だけら信用していたのに」などと落胆してはならないのです。人間は皆、煩悩具足の凡夫なのだから。

そして他ならぬ私(あなた)自身も、例外なく自分勝手に自分最優先に生きようとしているのだからね。

それを自分の殻に閉じこもって、悲劇のヒロインになって自ら命を断つなど本来許されるべきものではありません。


私だって何度も何度も居なくなってしまいたいと思ったことはあります。

若い頃、恩師に愚痴から「死んでしまいたい」と言ったことがあります。

すると恩師は「死にたいか、いいぞ。」と。

「ただし、お前が生まれて今までお世話になった方すべてに御礼を言って、それができたら死んでもいいぞ。それができないなら死んではならないぞ。」と諭されたことがありました。


私たちは弱いんです。

私たちは甘いんです、自分には。

私たちは楽になりたいんです。


でも本当は誰からも大切にされたい。

誰からも必要とされたい。

誰からも愛されたいのですよ。

その欲求(欲望)が叶わず、満たされないから死んでしまいたい•••となるのでしょう。


そんなどん底の私の絶望感を見抜いていてくださる方がいらっしゃるよ。

南無阿弥陀仏の阿弥陀如来ですよ。

そんな絶望感の私を絶望のどん底から掬いあげてくださる、たった一人の仏さまが阿弥陀(あなたを救いたいという願いでできた仏さま)です。

それを知り、受け取り(南無阿弥陀仏と声に称える)、真実のしあわせの世界(お浄土)へ生まれさせて、二度と輪廻転生しない悟りの仏さまにしてくださる、たった一人の仏さまが、阿弥陀如来です。


阿弥陀如来に遇うために生まれてきたのです。

そしてこの娑婆世界(人間世界)には真実がないことを知るために生きているのです。

だから、阿弥陀如来は真実の世界に生まれていくんだと思ってくれよ、と南無阿弥陀仏、ナンマンダブツと喚び続けてくださるのです。


その稀有な仏の願いを知らぬままに自ら人間学校を辞めてしまったら勿体無いじゃないですか。仲間がたくさんいるというのに。

凡夫は皆仲間、阿弥陀さまから願いをかけられた仲間(御同朋、御同行)ですよ。

私をあなたを真実の道に誘うために仲間となっているのですから。

無駄なものなどありませんよ。


誰だって死にたくなんかありませんよ。

私だってしんどいけど生きていたい。

豆柴くんたちを預かっている以上、遺していくわけにはいかないもの。それが責任かな。

でも私の娑婆の縁が尽きれば遺していかねばならないねでしょうね。

それでも私にはどんなに苦しくても、どんなにしんどくても、彼らがいるから耐えていけるのです。それが親たる責任じゃないですか。


そこも含めてちょうどいい。

阿弥陀さまは、ちゃんとわかっていてくださいますよ。死んでしまいたいくらい辛いことも、誰もわかってくれない苦しさだって阿弥陀さまはちゃんとわかっていてくださるのです。

そのまま、そのままと南無阿弥陀仏の声となって支えていてくださいます。

私が私のまま、あなたはあなたのまま、阿弥陀さまは親の名乗りとして決して見捨てず「大丈夫」だよ、って言ってくださるのです。


「大丈夫」の字には共通の字がありますが。

「大」にも「丈」にも「夫」にも同じ字が。

わかりますか?

そう「人」です。


これはもうダメだと思ったときに、もしこのまま死んでしまったら私のために何人が泣いて悲しんでくれるだろうかと考えるんだそう。

もし、三人いたらまだ大丈夫、生きていける、頑張れるって意味なんだそうですよ。

あなたには何人いますか。


人は一人もいなくても大丈夫だよ。

「阿弥陀」「親鸞聖人」「蓮如上人」、ほら三人いらっしゃいますよね。

じゃあまだ大丈夫じゃないか。

南無阿弥陀仏をお称えしながら、「今」を生きてみようよ。生きれるってしあわせだから。


私が頑張れているのは、外へ出てみたら出てみないと逢えない人に逢えるって素晴らしいことですよ。

今日だって、ランチに新規開拓で狭山市の【狭山カレー工房りとるほっと】でカレーを食べてきました。小さなお家を改装したような可愛らしいお店でした。ライオンズのファンでわんちゃん好きらしいことで話の輪が広がりました。

新たな出会いがありました。

名刺交換してきましたよ。


縁はあるものだから。

生きてみようよ。

ちょっとした勇気があれば誰だってあなただって。超法寺はそんな人のために存在していたいのです。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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