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亡き人はどこへ?

亡き人を仏と拝み 拝まれる仏になると

今を生きる


「息絶えて安らぐ兄や秋の空」

        (名古屋市 鈴木修二さん)

令和元年の中日新聞にありました句です。

息絶えて、お兄さんが亡くなられたのです。何と安らかな顔、そのお兄さんの顔を見て作者も救われたのでしょう。きっと大変な痛みや苦しみ、悩みを抱えておられたのでしょう。

死は安らぎです。死は涅槃です。


この句を改めて見ながら我が父の往生の姿を思い返しました。今年も早十月になりました。

三年前、我が父が静かに往生していきました。

まだ何も返せないうちに見送ることになり私は悔いがあります。あれもこれも話しておきたかった。でも最後まで語り合うことが叶わなかった。看取ることもできないまま。


生前、父は『歎異抄』の一節、なごりおしく思えども娑婆の縁尽きて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。


親鸞聖人のお言葉と伝わっています。


「死」を普段から見つめながら日々の生活を暮らしていくことこそが、実は前向きな「生」のパワーを生み出し、生きる力となるのだとおっしゃっています。


金子大榮師は、「浄土」とは〈魂の故郷〉であり、〈生の依るところ〉であるといわれています。つまり浄土とは、死後の世界の話ではなく、私たちの人生の究極的な依りどころであり、人生の意味を明らかにするものなのです。


お釈迦さまが「人生は苦なり」と、おっしゃっていることは皆さま頭ではわかっていながらも、そう思って生きてはいないのです。

違いますか?

「幸せになりたい」、「地位や名誉が欲しい」、「お金に不自由なく生きたい」、「健康で長生きしたい」、これは人間なればこそ皆が望むものでしょう。しかしながら、やはり「人生は苦なり」なのです。

叶えられても最後は「苦」からは離れられないのが諸行無常の世界であります。


生きている限り続きます。そして死ねば解放されるかと言えば「南無阿弥陀仏」に遇わなければ「苦」のまんまであります。

遇わせよう、聞かせよう、称えさせよう、まかせてくれるようにならそうと阿弥陀さまはご苦労くださいます。


死ぬことのありて 安堵や老いの冬

         [藤野リツさん]


阿弥陀さまのおはたらきは、わからないまま、疑っているまんま、摂取不捨のはたらきで抱きとっていてくださいます。

称えたら救うんじゃないのです。

見捨てない親がいるんだと気づかせてくださいます。自覚ですよ。一人じゃないんだ。

あなたの苦しみ、悲しみ、悩みは阿弥陀の苦しみ、悲しみ、悩みだと、常に寄り添ってくださいます。


人生の終わりを縁として、浄土に生まれ仏になる。


その日を待ちながら、今を大切に生きていくのです。私には何ができるのかを尋ねながら。

今月は父の祥月命日です。

諸仏のはたらきが我が身に南無阿弥陀仏の声となり、寄り添っていてくださいます。

寂しいけど有り難いのです。

南無阿弥陀仏

おやすみなさいませ。


昨日は長年お世話になりました高波信和さんのご命日でした。一年が過ぎました。

あっという間に過ぎましたが笑顔と優しい言葉は色褪せません。有り難い人に遇わせていただきました。南無阿弥陀仏



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