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ドライアイスにご注意を

最愛の人との別れは身を裂かれるほどの悲しみがあります。側に居た方がこの世の人で無くなることは、なかなか受け入れ難いもの。

しかしながら、命を終えたならば身体の活動が無くなりますから体温の維持もできずに朽ちていきます。


葬儀、火葬まで身体を保たせるためにドライアイスで凍らせています。

ドライアイスは二酸化炭素、冷気は低い場所に留まりますから、ご遺体に語りかけたり、棺の小窓を開けて長い時間過ごしますと危険です。

ここ二年で三人が命を落としています。


旅は道連れなどと言いますが意味が違います。

大切な人を見送ることも大切です。

そして亡き人がこの世に居てくださったことを語っていく人の存在も非常に大切だと思います。


浄土真宗のみ教えは、サヨナラのない世界を知ることです。最後の最後にサヨナラ〜での別れはとても寂しく思います。

『仏説阿弥陀経』には倶会一処とあり、阿弥陀如来を仰ぎ南無阿弥陀仏を称えて生きていく人生は「また再び遇う」喜びを知らされます。

つまり「またね〜」なのです。


亡き人は南無阿弥陀仏の声となり、私たちを常にお慈悲の光となって共に歩んでくださるのです。独りぼっちになるのではありません。

姿は見えないけれど、声のはたらきとなり私と人生をご一緒くださいます。

だからサヨナラではないのです。


悲しいけれど、またがある世界っていいものだと思いませんか。

すぐにはそうはなれないでしょうが、故人を縁として仏法聴聞に勤しみ生きていくのです。

亡き人を思いつつ、忘れずに生きていくのです。


人間は二度死ぬと言います。

一度目は自身の死。二度目は亡き人を忘れた時なんだそうです。

忘れないためにも生前を偲んでお仏事を欠かさず勤めて行きたいものです。

せめて自身の身がこの世にある間は。


昨今では家族葬が主流となり、なかなかゆっくり故人を偲ぶ時間が無いのが寂しく思います。

お通夜の良さは、故人ゆかりの方々がお焼香に来て、故人生前の姿を色々語ってくださいます。子どもや孫の前では見せない姿を見る貴重な時間、それがお通夜の有り難さではないかと私は思います。


これは我が親の時でなければ、きっと知ることのできないものだと思いますよ。

だからこそ、お孫さんも「騒ぐから家に置いてきた」ではなく、騒いでもいいから大切な人の死を目の当たりにさせてあげて欲しいと私は思います。


私はお葬式の場に呼んでいただく度に、我が親の生前の姿、亡くなった時のこと、さまざま思い出しています。親って有り難いものだと。

それを知る貴重な場を、僅かな時間とお金で失ってしまうのは実に勿体無いと思います。

決して強制では無いけど、親を思えば思うほど、親がたくさんの方々とお付き合いしていたならば、私が知らない我が親の姿を見る貴重な時間を設けて欲しいと願っています。


だって、またやるわけにはいかないのだから。

私は父の時に、人間の喜怒哀楽を目の当たりにしました。

さて、改めてドライアイスには気をつけてください。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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