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トリシュナー

仏教において、人間が持っている根本的な欲望をインドの古い言葉、サンスクリットでトリシュナーと呼んでいます。

これはもともと「渇き」といった意味で、喉が渇いているときに、私たちは衝動的に水を飲みたくなりますが、そのような激しい欲望、盲目的な衝動をトリシュナーと呼ぶのです。


渇愛(かつあい)としています。

今年の夏は激しい暑さに見舞われて熱中症が多かったですね。

カラカラに渇いた時、真水がなくて海水を飲んだとしましょう。

その海水は喉の渇きを癒してくれるでしょうか。

水だから大丈夫、そうはならないですよね。

海水を飲めば飲むほど渇きは増大しますよね。

一口飲んだ海水が渇きを増大させるのです。


ですから仏教は、欲望(渇愛)を充足させようとしてはいけないと教えているのです。

例えば年収一千万円が欲しいと思っている人が、実際に一千万円が得られるようになって満足するでしょうか。一千万円がない時は一千万でいいと思っていましたが、一千万を得るようになると一千万ではダメだ、五千万はないとダメだ・・・・・と思うに決まっています。

欲望は、それが充足されれば必ず増大するものです。

だから私たちは欲望を充足させることによっては幸福にはなれないのです。

それではどうすれば幸福になれるでしょうか。


仏教では欲望を少なくする少欲知足(しょうよくちそく)によって幸福になれると教えています。


イスラム教は約束をするとき、必ずそこに「イン・シャー・アッラー」という言葉を付け加えます。意味は「もし神が望んでおられたら」です。

コーラン」でそうしなさいと命じているのです。

ではなぜそうするのでしょうか。

未来のことは神の領分であって、人間の思うがままにならないからです。

だから、イスラム教徒は、約束を守れず遅刻しても、あまり相手を責めることはしません。神が望んでおられなかったから遅刻したと、おおらかに許します。

どうですか、私たち日本人とは正反対ですね。


仏教の言葉に、南無があります。

これはサンスクリット語のナマスの音訳語で、意味は「[帰依]」するという意味です。阿弥陀如来に帰依するのが南無阿弥陀仏のお念仏です。

『法華経』(正式名は妙法蓮華経)の教えに帰依するのが南無妙法蓮華経の題目です。つまり南無はイスラム教のイン・シャー・アッラーと同じ意味ではないかと思うのです。


私たちには先の人生などわかるはずもありません。

それなのに、歳を取るのは良くないとか、病気になりたくない、お金持ちは勝ち組で、貧乏は負け組だという物差しで全てを論じようとします。

しかし本当にその物差しは正しいのでしょうか。

そこで当てにならないもの全てを仏さまにおまかせして生きていくのが南無なのです。その意味で仏教は仏下駄主義です。仏さまに下駄を預けておくのが仏教であります。


※『コーラン』第十八章に、何事よらず、『わしは明日これこれのことをする』と言いっぱなしにしてはならない。必ず『もしアッラーの御心ならば』と付け加えるように。もし忘れたら主の御名を唱え、『おそらく主は私を導いて、これよりもっと正道に近いところへお連れくださるであろう』と言うように。


昨今、ニュース番組などでイスラム教について聞く機会はありますが、実はどのような教えで世界中でなぜこれほど多くの方々が信仰しているのかを学ぶ機会はないように思います。自力ではない世界にこそ真実な世界が広がっているように感じます。

どれほど素晴らしい教えでも、神仏をこちらに持ってこようとすると途端に真実から離れてしまう気がするのです。

それほど人間の欲望は地獄を近づけてしまうように思います。


浄土真宗は南無阿弥陀仏の阿弥陀如来に帰依する教えです。

素直にそのままであります。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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