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「いはんや悪人をや」

善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」 『歎異抄』


親鸞聖人の言葉だと作者と言われている唯円がおっしゃっていますが、近年では法然聖人の言葉であったと言われています。

浄土真宗というと皆さまはこの言葉を言われます。そして実は一番誤解されている言葉でもあります。


ここで言われる悪人は、私たちが思う犯罪者のような人のことを言ってはいないのです。

ごくごく当たり前の仏教の考え方に基づいているのですから、そもそも親鸞聖人か法然聖人かを論争するようなものではありません。


考え方として例え話をします。

百人の人が太平洋のど真ん中で溺れています。

イメージしてくださいね。

さて仏さまは誰から先に助けられるでしょうか。

百人を一度に助けられるなら、もちろん仏さまはそうなさるでしょう。

しかしながら、一人ずつしか助けられないなら、誰を優先するでしょうか。


お布施の額(金額)ではありませんよ。

私たちの世界なら、先ずは子ども、女性から救助するでしょう。

しかし仏さまは身近な人から救うのです。

差別のないのが仏さまの慈悲ですから、仏さまは条件は献金の額ではないのです。

後回しになる人はいます。それは泳げる人。


泳げなくて沈みかけている人は、やはり先に救わねばなりません。泳げる人には「申し訳ないが少し待っていてくれ」と仏さまは頼まれることでしょう。


泳げる人を「善人」、泳げない人を「悪人」とすれば、仏さまは悪人を先にされるのです。

これは例えですが、善人、悪人がわかりましたか。

決して犯罪者を悪人とはおっしゃっていないのです。


親鸞聖人は、「死ぬまで煩悩から離れられない凡夫」を南無阿弥陀仏一つで救ってやりたいと阿弥陀さまは誓願されておられると言われます。だから日々罪を重ねなくては生きていけない自覚を持ちなさいと言うのです。


凡夫だから何をしてもいいんだ•••••、そんな邪な自分勝手な生き方を勧めているわけではないのです。

修行もできず、悟りを開く力も持てない、罪を重ねて地獄行きの生き方しかできない者を最優先で救ってやりたいと言う仏心が南無阿弥陀仏の声となって届けられているのです。


阿弥陀さまのお救いは常に先手であります。

まるで親のような、そんな摂取不捨の心で包み込んでいてくださいます。

確かに子供の頃は親心には気づけず、自分勝手な生き方をしがちですよね。(全員とは言いませんが)

親の有り難さは、自分が親となった時や、親を見送った時にしみじみと知らされるのではないでしょうか。


私は恥ずかしながら、我が父母を見送り時が過ぎゆく中に少しずつ知らされています。

仏さまに背を向けて生きている我が子を案じ、何とか気づいて欲しいと、あの手この手をかけて知らしめようとされてくださいました。

親ほど有り難いものはいません。


だから阿弥陀さまは、我が親のような仏さまになっていてくださるのではないかと私はそう思っています。


浄土真宗のご縁の方々には『般若心経』が好きだとおっしゃる方があまりに多いように感じますがが、『歎異抄』を愛読して欲しい。

そうすればきっと、『般若心経』が気にならなくなるはずですよ。

だって私のためにこそ『歎異抄』はあるのですからね。


『歎異抄』第三条

善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。しかるを世のひとつつねにいはく、「悪人なほ往生す。いかにいはんや善人をや」。

この条、一旦そのいはれあるに似たれども、

本願他力の意趣にそむけり。

そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず、しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死(しょうじ)をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。

よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。


[現代語訳]

善人でさえ浄土に往生することができるのです。ましてや悪人はいうまでもありません。

ところが世間の人は普通、「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない」と言います。

これは一応もっともなようですが、本願他力の救いのおこころに反しています。


なぜなら自力で修めた善によって往生しようとする人は、一筋に本願のはたらきを信じる心が欠けているから、阿弥陀仏の本願にかなっていないのです。

しかしそのような人でも、自力にとらわれた心を改めて、本願のはたらきにおまかせするなら、真実の浄土に往生することができるのです。


あらゆる煩悩を身に備えている私どもは、どのような修行によっても迷いの世界を逃れることはできません。阿弥陀仏は、それをあわれに思われて本願を起こされたのであり、そのお心は、私どものようは悪人を救いとって仏にするためなのです。


ですから、この本願のはたらきにおまかせする悪人こそ、まさに浄土に往生させていただく因を持つものなのです。


それで、善人でさえも往生するのだから、まして悪人はいうまでもないと、親鸞聖人は仰せになりました。



何度も何度も繰り返して読んでみてください。

この上ない素晴らしい教えがあるということを知りますよ、きっと。

だって私を教えに合わせていく道ではなく、私のために教えがある道なのだから、これ以上素晴らしい教えがどこにありましょうか。


それに気づけないのは「欲」のなせる技でしょう。「我」が強ければ強いほど「自力」に力が入るものです。

他力はそのまま、阿弥陀仏の本願他力のおはたらきのままであります。


有難きしあわせなり。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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