「まこと」がわからないなら
- 超法寺の住職

- 2024年3月1日
- 読了時間: 5分
【一度に聞法することは難しい 一日一日に仏法をたしなみ 飽かずに喜ぶことだ】
皆さまは普段からお聴聞をさせていただく中、その喜びを感じておられるでしょうか。
気が向いたら聞くとか、楽しい話だけ聞いているというのが多くはないでしょうか。
人間は60日続けていくと習慣になるのだそうです。
習慣になるまで続けていくと、聞こうと思わなくても逆に聞かないと落ち着かなくなります。
某ギターリストが、「ギターに三日触らないと落ち着かない」と言われていました。
仏法も誰かのために聞くとか、自分のためでなければ身につかないものですね。
三月になり春季彼岸会が近づいてきました。
彼岸はお墓参りをする行事ではありません。
昔から「暑さ寒さも彼岸まで」と言われているのは気候のことだけではありません。暑かったり寒かったりすると落ち着いて仏法聴聞をする気になれないから、春と秋は一番お聴聞しやすいということであり、先人が残してくださった尊い仏法に遇える素晴らしい行事で有ります。
先祖や亡き人のためではなく、死にゆく私の安らぎのためにご先祖に訪ねていくこと、それが彼岸会ではないでしょうか。
【彼岸】は、浄土真宗では、計り知れない光にあふれた阿弥陀如来のお浄土のことを言います。迷いの(苦悩)世界である此岸(しがん)に対する悟りそのものであり、私たちの眼で確かめることも、思いはかることもできない世界で有ります。
だから自分では知ることができませんから、【疑う】のです。迷いの人間は「自分は正しい」と常に思う考えがあります。
親鸞聖人は『一念多念文意』に、
「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず
と、教えてくださいます。
煩悩具足の凡夫たる私たち人間は、悟りを開く力など持てず、真理に暗く、常に自己中心的な心で満ち溢れていて、欲望が多く、怒りや(他人が悪い)、腹立ち、そねみ、妬みの心が絶え間なく起こり、このような心が死ぬまで尽きることがありません。
自分の力で悟るためには「まこと」を見る眼を持ち得ねばなりません。
【闇】の心に支配されて生きるしか術がないのです。その【闇】にある自身に気づくためには、【真実】なる阿弥陀如来のお浄土から照らされてこそ知ることができるのです。
一体どこへ向かって生きているのか、どうして南無阿弥陀仏の声を聞く縁に遇うことができたのだろうか。こちらから求めたことではないのに。
親鸞聖人は『高僧和讃』に、
生死(しょうじ)の苦海ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける
と、お示しくださいます。
私たちのような凡夫の生き方では、到底お浄土には程遠い世界がお浄土で有ります。
「親」となってはたらき続けていてくださっているというのに、それに背を向けて生きている凡夫。
阿弥陀如来のご本願のお救いは、迷いの海に自ら沈んでいくしかない凡夫たる私を、南無阿弥陀仏のおはたらきで、迷いの海を渡してくださいます。悟りの【彼岸】へ至らせる船であるとして、「弘誓のふね」といわれています。
凡夫が仏になるとは不思議だのう
有り得ないのです。自力で往生するなんて。
彼岸(浄土)に渡ることができるのは、「弥陀弘誓のふねのみぞ」と、ただ阿弥陀如来のご本願のはたらき以外には無いのです。
私が•••の生き方では到底お浄土参りなど叶わないのです。
親鸞聖人は『正信偈』に、「報土往生おおからず、仮土往生すくなからず」と申されておられます。
仏法聴聞もせず、お念仏も申すことの無い人が、死んでお浄土にすぐ生まれていくことはないということをおっしゃっておられるのです。
またお念仏をお称えしても、阿弥陀如来のご本願のはたらきを疑っている人も報土往生はできないのです。
地獄は自分が作って自分が堕ちる世界です。
だから地獄を【自業苦】というのです。
自分は常に正しいと思って生きようとする私たちに、阿弥陀如来は【南無阿弥陀仏】と喚び続けておられます。
あなたの人生の意味を明らかにして、確かな彼岸への道を歩んでほしいと願い続けておられる方がいることを是非、訪ねてください。
苦しみの世界を生きている私たちは、自力ではどうにもならないと言いました。つまり、嫌になったからと自ら命を絶ってみても何の解決にもなりません。阿弥陀如来のご本願に遇わせていただいて、ご先祖、我が親から賜った命を生きていくこと、そして南無阿弥陀仏の声を素直に聞いて報恩感謝のお念仏、南無阿弥陀仏を声に称えて生きていくのです。 辛くても、苦しくても、思い通りにならなくても生きていくことが私に願われているのだから。
私も両親を見送り、庇を失って常々、心が折れることがままあります。辛くって悲しくって、打ちのめされることが実に多い。それでも、南無阿弥陀仏をお称えさせていただく中に、両親の諸仏のはたらきが私を振るいただせてくださいます。
それを知ることができた私はしあわせ者であります。
是非、春のお彼岸はお墓参りをするだけではなく、仏法聴聞することを実践してください。苦悩の私が安らかに生きていくには仏法聴聞は欠かすことはできません。
南無阿弥陀仏、なんまんだぶつ




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