どんなに格好つけてみても
- 超法寺の住職

- 4 日前
- 読了時間: 3分
宗祖親鸞聖人のご和讃、帖外和讃に「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なりゆゑに 虚仮の行とぞなづけたる」とあります。
若き時に某師の法話で初めて出遇った和讃です。
実にショックで、いかに自分が格好だけの袈裟を身につけ、偉そうに人前で仏法を語っていたのか、どこに真実があるのかないのか、それすらもわからずに周りからチヤホヤされて生きていたのかという現実を突きつけられた時に浄土真宗とは、親鸞聖人生きた世界とは何であったのかを考えさせられたのでした。
人生で初めて浄土真宗から離れて仏教とは何かを問う機会がありました。
もしも私が太平洋のど真ん中で船旅を満喫していた時、突如として大時化に遭い船が難破して・・・という例え話です。
まだ布教所を出す前に縁あって北海道での常例布教の仏縁がありました。
その時、フェリーで行ったのですが爆弾低気圧で大揺れでまともに船内を歩くことすらままならない。その時にはあのセウオール号(韓国のフェリー転覆事故)を思い出しました。きっと乗客はこのような苦痛だったのではないかと。
初めて船で死を覚悟したのがあの時でありました。
飛行機は日航機墜落事故(私は同じ時間に伊丹から羽田行きに乗っていた)です。
船が壊れて大海原に投げ出された。島影一つ見えない太平洋のど真ん中で、かろうじて浮いている。映画『タイタニック』のように。
その時に自分の一番大切な人が隣にいた。いつ体力が尽きて溺れてしまうかと思った時に、一枚の板が目の前に浮いてきた。それは一人がかろうじて浮かぶことができるほどのものだった。二人なら重さに絶えきれずに沈んでしまう。
そんな絶体絶命のときに、今までお前のためなら何でもしてやると言葉を交わしていた人に、「俺は死んだって構わないからお前はその板にしがみついてくれ。ひょっとしたら誰かが救ってくれるかもしれない。俺のことはいいんだ」とはたしていうことができるのか。
自分の心の中で巣くっている悪魔の心と言わざるを得ません。
親鸞聖人が雑毒の善、虚仮の行と言われた人間の本性を言葉で知ったのです。
どれだけ格好つけてみても、偽りの行為でしかない。自我の恐ろしさであります。
罪深重、煩悩具足の凡夫などと言っても、本音ではそう思ってはいない現実があるのではないだろうか。
改めて、私は自問自答するのです。
してみてもやっぱり格好だけなのですが。
今日は一日、隣の飯能市でポスティングをして歩きました。
10,000歩歩いて健康にも寄与したかもね。
標高200メートルの丘のような公園から川越市方面、入間市方面を見渡してみたよ。
色々思うことがありました。何ができるか、できないか。真実ではないけど力にはなれることもある気がします。飯能市には浄土真宗本願寺派寺院はまだありません。
疲れましたが充実した一日になりました。
南無阿弥陀仏
、南無阿弥陀仏
、南無阿弥陀仏


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