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他人(ひと)の話が聞けない人

おはようございます。

少しずつ桜も咲いてきて春はすぐそこですね。

今年は花粉が凄いです。昨年は大丈夫だった私も今年は堪えられません。

しかし生きるってこういうものですね。それから思うように生きられないのが人間(無常)世界です。


さてこの度は阿弥陀さまのおはたらきについてお話しします。

ものわかりのいい人は他人の話が聞けないと言います。

他人が親切で教えてくれているのにも関わらず、話を最後まで聞かないで、

「わかっています」、「もう分かりましたから」とすぐに言ってしまうような人のことです。どうでしょうか。私もこういうことがあるようです。


以前、法話をお聴聞した時に聞いたことですが、他人から教えられて「わかっています」と言ったときには、その言葉の意味はわかっても、その人の優しさや温かさをその時点では跳ね退けているのだそうです。

本当にわかった時には、「有難う」と頭が下がるのが本当の聞き方なのだそうです。


つい自分はわかっている、これだけのことを一生懸命やっている、苦労してきた、と言いたくなるものです。

仏法を聴聞させていただいていても、同じようなことをしているのです。

「これだけ教えを知っている」、「今までこれだけお聴聞してきた」

こんな風にです。間違っているのに自分の偏見や自分の学びが常に正しくて、周りが違うんだと言いたくなるものではないでしょうか。


以前、お寺に参ってお聴聞された方も、最終的には南無阿弥陀仏より他のものが自分には合っているとか、『仏説無量寿経』より『般若心経』が好きだと言って離れていった人がありました。強要はできないししてもしかたないのでそのままにしましたが、少なくとも私には南無阿弥陀仏しか道はございません。


仏法をわかったつもりでいる。

仏法聴聞してわかったと思ったときには、言葉の意味はわかったとしても、その時点で阿弥陀さまのお心をはねのけているのです。



本当に阿弥陀さまのお心がわかった時には「南無阿弥陀仏」と頭が下がってくるのが本当の聞き方です。ご苦労くださっていたのでしょうね。有難いことです。

南無阿弥陀仏

仏法聴聞とは、わかるまで聞くのではなく、私の頭が下がるようになるまで聞かせていただくものなのです。


聞くことも満足にできない、頭が下がらず下げているだけ、そんな私がいつのまにか、仏様のお話を聞くようになっている。凄いことですよね。

きっとそれは遠い遠い昔からこの私を忘れることのない阿弥陀さまが私のところに来てくださり、私を包みこんでくださり、数多くのご縁を結んでくださったからなのでしょう。


朝から晩まで人間の話しかしない私が阿弥陀さまのお話をする私になることが、つまりは阿弥陀さまが主人公の人生生活になっているのです。


聞くことのなかった、できなかった私がお聴聞できる身となるまでに阿弥陀さまは

ご苦労くださっていたのでしょうね。有難いことですね。南無阿弥陀仏

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