どなたも仏になる人です
- 超法寺の住職

- 2 時間前
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常不軽菩薩こそ私の理想であります。
あらめの衣 身にまとい 城より城を へめぐりつ
上慢四衆(じょうまんししゅ)の人ごとに 菩薩は礼を なし給う
われ汝らを 尊敬す あえて軽賤(きょうせん)なさざるは
汝ら作仏(さぶつ)せんと故と 菩薩は礼を なし給う
【宮沢賢治】
【不軽】(ふきょう)
宮沢賢治さんは、明治二十八年、岩手県に生まれた。
四歳の頃は『正信偈』などを暗誦した。
二十歳には『法華経』を読んで、ただ驚喜(きょうき)し おののいたという。
その後、いちずにこの経を奉じ、そこに説かれる常不軽菩薩を学んだという。
常不軽菩薩とは、読んで字の如く常に人を軽んじないことを誓った菩薩であります。
どのような驕慢の人をも、その人を拝むことを仏道の行とする菩薩であります。
人を選んで、お辞儀をするのが世の常であります。
威張る人にお辞儀をするのは嫌なものであります。
蔑む(さげすむ)人にも丁寧には挨拶しない。
どんな人にも一人残らず会う人ごとに心からお辞儀をする者の尊さになろうとする
常不軽菩薩、これが宮沢賢治さんの理想なのだそうです。
【礼】
身に粗末な姿のまま城下町を、あちこち礼の修行をする。
下賤(げせん)とされる者をも軽んぜず尊敬すること、仏を礼(らい)するに同じ、
その心は何か。
一切衆生、どなたも仏になる人である。
愚人、悪人そのものに礼をなすに非ず。
愚悪の人も、いかなる人も仏になるべき人だからである。コウイウ人ニ私ハナリタイ。
やることは実際にはどうしてもやりきれないもどかしさがあります。
修行に行じるとは常に我欲がじゃまをするものであります。
自力では悟りの道など全く身につかないものであります。
それなのにどうして人間は自力が好きなのでしょうか。
親心、子知らずはいつの世も変わらない。
布教の場に立つ時、私は私のお取り継ぎを聴聞してくださる方々に頭をさげずには
いられないし、お礼の言葉を口にせずにはおれないのであります。
それすらせずに取り継ぐ布教使には違和感を感じてしまうのですが、これも常不軽菩薩さまの精神とはかけ離れているのですね。
お恥ずかしい自力の煩悩具足僧侶です。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏



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