お念仏が「宝」になっていますか
- 超法寺の住職
- 1 日前
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九州博多、万行寺の七里恒順[しちりごうじゅん]和上は、【南無阿弥陀仏】という御法(おみのり)は、如来さまがつくりずめのものである。釈迦如来がこれを開き給はずとも、その御法は十劫(じっこう)の古(いにし)へよりあるけれども、弘めず説き給はぬ前は、石の中の火と同じで、お互いに御利益(ごりやく)はいただかれぬ。
火の用(はたらき)はない、御開山さま(親鸞聖人)、蓮如さまなどがこの法を弘め、口に出して説かれたおかげで、凡夫の成仏ができるようになりました、そしていつも「お念仏しなはれや」と申されたそうです。
七里恒順和上に御教化(ごきょうけ)を受けた人は、全国各地に博多の「お念仏」として、和上の御説法を伝えました。
『七里和上言行録』に書き遺されてあります。
筑前名島村の長幼郎さんは、かつては西郷吉之助さん、平野次郎さんなどと国事に奔走された気概に富んだ人であったそうです。
深く和上に帰依されたようで、わざわざ長幼郎さんに示されたという法語が伝えられています。
一、報恩の称名は相成(あいな)るだけ音声(おんじょう)を小にして、己れが耳に入るを限りとすべし。
[一日一日、自分の耳に聞こえるぐらいの声でお念仏させていただきましょう。]
一、仮にも他の道俗に対して己れを高ぶる心なく、常に仏恩(ぶっとん)に対して慚愧(ざんぎ)を懐(いだ)き、少しも己が行ひに善きことあらば仏力の御所作(おしわざ)と喜び、必ず我情をつのるべからず。
[常に信を求めることを周りの人に誇らしく見せることのなきように、少しでも自分に善きことあれば、仏さまのお力を賜りてのことと喜び、自分が善きことをしていると思わないように]
一、総て交際には勉めて穏和を主義とすべし。
[世の中での生活は、【穏和】を第一としなさい。]
一、信心の初めに機のあさましさを知り、法の尊さを知る時は、後々の行状といえども自ら身の浅ましきを知り、謙譲(けんじょう)の心を常とすべし。
[法に遇いて、自分のいたらぬことに気づかせてもらい、法の尊さを知ることができるようになれば、「謙譲の心」、譲り合う心を毎日毎日の志しとしなさい。]
一、如何にも凡夫は名利我慢の強きものなればよくよく注意せざれば正路を踏みはづすものなり。自ら道を誤りながらも他の評価を聞きては瞋(いか)るものなり、これ大いなる誤りなり。人は自ら善悪を見分ること至りて難きものなれば他人の己れが非を評するを聞くときは、仏より云はしめ給ふ誡語(おいましめ)と思ひて能く能く反省し給ふべし。
[凡夫が名利にまよい正路、正しい道をふみはずしやすいこと、そして自分で道を踏みはずしながら、他の人がそのことを指摘すると、やはり「いかる」(瞋る)、しかし人間というものは、自分で善悪を見分けることが難しいもので、他人が自分のいたらぬことを言ってくれるときには、仏さまよりの「おいましめ」(誡語)と思って反省しなさい。]
七里恒順和上は、常に親鸞聖人の御和讃、
【弥陀大悲の誓願を、ふかく信ぜんひとはみな、ねてもさめてもへだてなく、南無阿弥陀仏をとなふべし】
〈浅枝善照師〉
有り難くお聞かせいただきました。
驕らずに謙虚にこれからもお取継ぎさせていただきます。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
おやすみなさいませ。
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