「死んだらどうなるの」
- 超法寺の住職
- 5月29日
- 読了時間: 3分
皆さま、こんばんは。
今夜は我がライオンズがまさかの逆転されている状況にモヤモヤしております。武内だから3点あれば楽勝かな、なんて楽観していましたがそんなに甘くはないのかな。やはり渡部、滝澤がいないと迫力に欠けるなぁ。中日の彼を無償トレードでくださいませぬかと私は密かに思っておりまする。
さて先日とある方から「死んだらどうなるの」かという相談を受けました。
これは人間みなこの根本不安を常に抱えています。「なるようにしかならない」のに不安でならないのです。
しかし死にたくないと思っても必ず死にます。
死んだらどうなるのかなんていくら考えたってわからない。若い時や普段の日暮しが順調の時には気にならないことかも知れませんが、老いたり、病気になったりすると途端に「死が現実味を帯びてきます」。
このどうしようもない「死」の問題を解決していくのが宗教(仏教)です。宗教とはあまり良くないイメージがありますが、【教えを旨とす】ものであります。もちろん人間が言うことには真実味はございません。
すぐに「お金」の話が出てくるのは怪しい。
「死の解決」はお金ではどうにもなりません。
あのお釈迦さまでも死んでいきました。
そのお釈迦さまが教えてくだされたのが、【安心して生きて行き、そして死んで行ける道】でありました。
【我が名を(南無阿弥陀仏)称えて、我が国(浄土)に生まれてきてくれよ。】
この阿弥陀如来の願い、仰せをそのままに聞き入れて、南無阿弥陀仏とお念仏を称えながら思い通りにならない人生を生きて、この命を終えたならば浄土へ生まれて往く人生を歩んで行くのが、阿弥陀如来の本願の宗教です。
【阿弥陀如来は煩悩の闇に右往左往する私たちを救いたいという願いでおはたらきくださいます】
浄土は、経典には「西へ十万億の仏土を過ぎて」と説かれています。
その浄土は、必ず死んで行く無常の世界、煩悩(欲)に穢れた迷いの世界とは次元が違います。それを経典には【十万億】という距離の隔たりをもって示されています。
決して人間の延長ではありません。仏(佛)という字は「人間でない」を表しています。
「死ねば仏」が正しくないのはそういうこと。
お浄土とは、全てをわが命と見ていく無量寿の世界(落語では、『じゅげむ』に著されています)、その阿弥陀如来の浄土に生まれて悟りの仏になることで、私の人生が完成するという生死を超えた人生を歩んでいくことを勧めるのであります。
夫逝きて 身軽になりし 我が暮らし 百パーセントの 不幸などない(中村 偕子さん)
(意味)
ご主人を亡くされたのです。悲しみと寂しさの中に、悲嘆に暮れる毎日を過ごしていましたが、気がついてみると、主人のためにと食事を作ることもない、誰に気兼ねをすることなく何処へでも行ける。不幸不幸と嘆くこともない。寂しいけれども、この身軽さを大切に前向きに生きて行こう。こんな思いを詠まれたのではないでしょうか。
人生が思うようになったら、神も仏にも見放されたのだ。恵みは逆縁不遇の中にこそある。
仏教の教えに遇いますと、全てのことには意味がある。仏さまのメッセージが常に含まれていると私は受け止めています。それに気づかせていただけたならば百パーセントの不幸などありはしませんよ。
人間なんだもの。悩みはあるよ。
心配ないよ、なるようにはなるよ。
一人じゃないからね、いつも一緒だよ。
南無阿弥陀仏の声となり見守っていてくだいます。そう思って生きてごらんよ。
きっと視野も広がって嫌なことも気にならなくなるからさ。私はそうやって生きるように心がけていますよ。
今日も一日、たくさんの人達から支えられた有り難い一日でありました。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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