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執筆者の写真超法寺の住職

親鸞さまの奥さま(恵信尼)

皆さま、おはようございます。

昨日は八王子までお参りに行きました。

途中で暴走自動車が目の前に突っ込んできて、あわや激突する恐怖体験をしました。

アイサイトのおかげで難を逃れましたが、相手は謝るだけで焦った様子もなかった。

もう一度、教習所からやり直していただきたいです。事故はお互いの過失によるものですが、周りの状況をよく確認しながらアクセスを踏んでほしいものです。

私はなんか怪しい動きしているなぁと見ていたため初動態勢ができていました。


基本、お仕事は業者依頼のため事故であっても遅れるとアウト、ペナルティが待っています。

いつもその緊張感でハンドルを握っています。

超法寺と一連托生であります。

皆さまもどうか焦らず運転なさってください。


注意一秒 後悔一生


南無阿弥陀仏


さて、おかげさまでようやく二日酔いの苦しみから解放されました。やはりお酒は苦手であります。私にはルイボスティーがお似合いです。

しばらくお酒は遠慮します。

ということで、途中になっていたブログ記事を書きますね。

恵信尼公の話です。


恵信尼さまは、寿永元年(1182)〜文永五年(1268)?

親鸞さまとご結婚された時期は様々ありますが、越後三善氏の娘であるため親鸞さまが越後へ流罪になられた際に身の回りの世話をするために結婚された説が有力であります。



また、親鸞が帰京された際の動向についても諸説あります。

一、京都へは同行せずに、越後に帰郷した。

ニ、京都に同行して約20年共に暮らし、康元元年(1256)に親鸞さまの世話を末娘の覚信尼に任せて、越後へ帰られた。

三、関東での拠点であった稲田の草庵に残り、そこで没した。〈西念寺寺伝より〉


弘長二年(1262)に、親鸞さまが京都で没した際には、越後で喪中陰に服している。

没年は正確には不明ですが、確認できる最後の消息は文永五年(1268)3月12日付の覚信尼宛の書状である。

2006年には「文永七年(1270)9月18日に死去し、19日に大江山に葬られた」という内容の古文書(1811年の写本)が発見されているが、史実かどうかは不明。


※鷲尾教導(明治八年(1875)〜昭和三年(1928)4月11日)真宗史学者。

浄土真宗本願寺派の僧。

安城寺(新潟県見附市)の住職。

明治43年(1910)に佛教大学(現在の龍谷大学)で書記となる。



私も超法寺を共に支えてくださるパートナーがいてくれたらより一層気合いが入るのでしょうが、なかなか「縁」がありません。

出会いはそれなりにありますが、お寺の婚活は容易ではありませんね。

すみません、愚痴を言いました。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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