回向するのは誰?
- 超法寺の住職

- 9月29日
- 読了時間: 3分
おはようございます。
九月も終わりますね。台風が近づいてくると一気に秋から冬へのカウントダウンです。
超法寺は今月もなかなか厳しい日々でしたが、それでも、超法寺を頼りにお参りをご依頼くださった方のおかげで何とか乗り切れそうです。
なかなか軌道には乗れませんが、これも私にはちょうどいいのかも知れませんね。
そう思えば何とかなるものです。
業者さまからのご依頼も業者さまのご都合。
周りからの評価も周りの方の評価です。
私は私が成すべきを精一杯努める他はこざいません。
阿弥陀さまがご一緒の我が人生、あることをそのままに生きていくだけと受け止めています。
生は偶然、死こそ必然ですから偶然の我が命、お金だけに振り回されるのはごめんです。
さて、葬儀へ参りますと司会の方が「ご回向くださいますのは超法寺ご住職です」と案内されますが、昔からずっと違和感でした。
それは私が救うのではなく、私も阿弥陀さまによって回向される身であるからです。
回向とは、めぐりさしむける、何かをその方向へ向かわせるという意味です。
では「何を」「どこへ」向かわせるのでしょう。
仏教を信じる人の究極の目的は悟りを開いて仏となることですが、それを達成するには修行をして煩悩(執着)からの脱却が不可欠です。
つまり修行をするのは(執われからの脱却のため)ですから、あれが欲しい、あれが好き、腹が立つ•••そのようなものから解放されていくために行うものですから、高級車にも興味がない、煌びやかな装い(派手な法衣)にも興味がない、顔(表情)は仏様のように柔和で、言葉も温かみがあり棘がない。
皆さまの周りのご住職、お坊さんはそんな方でしょうか。比叡山や高野山で修行をして来られた方の姿、言動を拝見すれば悟りの道を歩んでいるかどうかよくわかるでしょう。
私も若い頃幾度となく真似事をしましたが、ご覧の通りの破邪僧であります。お恥ずかしいですね。だから私などが皆さまを回向することなどもってのほかなのですね。
悟りへの道はさまざまです。
他力本願の道は、私の自力を捨てて阿弥陀さまの大慈悲心におまかせして、南無阿弥陀仏とお念仏を称えながら生きていくのです。
回向とは功徳(善い行いを積んで[修行]得られた結果)を独り占めにせず他者の修行を助けるために振り向けていくことです。
それがいつのまにか、亡くなった方の冥福を祈るを指す言葉となってしまいました。
もちろん浄土真宗では冥福は祈りません。
悟りも得ていない私が亡き人にどうやって功徳を振り向けていけるのでしょうか。
そうではなく、遇い難い仏縁に誘ってくだされた故人への感謝を大切にして、南無阿弥陀仏を称えられる私にならせていただくことこそが、他力本願の道を歩ませていただく私がさせていただくご恩報謝、つまり回向の本来の姿ではないでしょうか。
言葉だけが残り、本来の意味を失わないようにしたいですね。
土曜日は埼玉県行田市まで仏縁をいただき、あの映画の舞台にもなりました忍城を観てきました。良い見聞になりました。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏




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