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ほねをくだきても謝すべし

報恩講では、しみじみと旧譜で歌う「恩徳讃」が私は大好きです。


如来大悲の恩徳は

 身を粉にしても報ずべし

 師主知識の恩徳も

 ほねをくだきても謝すべし

           『正像末和讃』


阿弥陀如来が私にかけてくださる大いなる慈悲の恩徳は、この身を粉にしても報じなければならない。お釈迦さまを始め七高僧、如来の大悲を明らかにお示しくださった人々の恩徳も、骨をくだいても報謝しなければならない。


この世に生まれ難き人間としての生命を恵まれ、本願念仏(ほんがんねんぶつ)に出遇えたということは、私にとってどれだけの意味があるのかといえば、それはこの私の身を粉にしても、骨をくだいても報謝しなければならないほどの大いなる恩徳(めぐみ)であります。


親鸞聖人は自ら深く頷かれ、すべての人々に語りかけていらっしゃいます。

親鸞聖人がおられたからこそ、他力念仏に遇うことができた私たちですから、自ずと親鸞聖人への感謝の表しでなければならないのです。

ただの仏教讃歌でも和讃でもないであります。


恩という字は、例えば恩返しというように、一般には誰か特に世話になった人への感謝の気持ちや行動を表現して使いますが、本来はいつくしみ•めぐみを意味する言葉です。


親の恩も、親のいつくしみを意味します。

親への感謝として表現しますから、報恩というのです。


過去からかけられてきたいつくしみに感謝するということは、未来をつくる者へのいつくしみを持つことに他ならないことを心に刻み、その思いを大切にして報恩講に臨みたいものです。



南無阿弥陀仏

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