皆さま、こんばんは。
先週、亡き父の追悼法要並びに納骨(分骨)法要を務めてきました。亡き父、故末田龍圓の愚息(長男)として今まで父の生まれ育ったお寺、そして代務住職を務めた円正寺。
今や門徒が0となってしまいましたが、門信徒でなくても父を慕い、亡き爺ちゃん、婆ちゃんを慕ってきた近隣の方々がまるで門信徒のごとくの立ち振る舞いでお寺を支えてくださいます。この度の法要にも親族を合わせて25名が参加してくださいました。
頭が下がります。
亡き父に代わりご挨拶をさせていただきました私は何もできないダメな息子です。
きょうだいたちが、お寺を支えてくださいます方のお力添えにて何とか終えることが出来ました。改めてお寺は一人では切り盛りなどできないのです。
多くの方々に支えていただかねば護持はできません。
現在は代務住職不在であります。
私は埼玉県入間市のいるま布教所を預かる身であり、また独り身でもありますからとてもとても広島のお寺を預かることなどできません。
しかしながら、生まれてからずっと事あるたびに円正寺にはお世話になりましたから、知らんぷりをすることはできませんし、一生懸命にお寺を支えていこうとされる方々を前に何か自分にできることはないのか模索していきたいと思っています。
そこで改めて安芸門徒とは一体どのような歴史があるのかをご紹介します。
建永2年(1207)、法然聖人が法難に遭って流罪となった際、その弟子の【浄聞】が備後国に配流されたことが始まりとされます。
鎌倉時代末期に浄土真宗の一派であった【明光】が沼隈半島に進出し、元応2年(1320)現在の沼隈町山南に光照寺を築き、そこを西国の布教拠点とした。
[中略]
この頃の備後国門徒衆は下野国の専修寺系であり、一向一揆ではなかったと推測される。
そのためか安芸国や備後国には一向一揆は存在せず、当時は安芸国の分国守護大名であった安芸武田氏の保護を受けていた。
仏護寺(現在の本願寺広島別院、元は天台宗寺院)が創建されたのも、この安芸武田氏の庇護を受けていた頃である。
そして明応5年(1496)、仏護寺第二世円誓の時に浄土真宗に改宗して、安芸国の浄土真宗の中心となった。
しかし安芸武田氏は周防、長門国の守護大名大内氏や安芸国人の毛利氏の勢力拡大に押されて徐々に衰退して、天文10(1541)、ついに安芸武田氏は毛利元就によって居城の佐東銀山城を落とされ滅亡する。
城麓にあった仏護寺も兵火に焼かれて廃墟となった。
天文21(1552)、仏護寺第三世超順は毛利元就と面会して協力を仰ぎ、仏護寺は再興された。
元々信仰心の篤い元就は、仏護寺に手厚い保護を与えた。
その元就の恩に報いるべく、牛田の東林坊(現広島市中区寺町の光円寺)等のように、毛利氏の勢力伸長に協力して、多くの軍功を挙げた安芸国の真宗寺院も存在する。
また、戦陣を同じくすることによって毛利氏傘下の水軍衆も浄土真宗に入信して門徒と化していった。
[中略]
石山本願寺での織田信長軍との戦いでは、要害堅固で士気の高い門徒衆が立て籠った石山本願寺は織田信長の攻撃支えきっていた。
そのため信長は包囲による兵糧攻めを計画して実行に移した。物資の補給を断たれた本願寺は、毛利輝元に支援を依頼。この支援要請を輝元は承諾し、村上水軍、小早川水軍を主力とする毛利水軍を派遣して、兵糧や物資の搬入を行うことに決定した。
[中略]
江戸時代を通じて安芸国内での信仰の中心となった浄土真宗本願寺派は、幕末の動乱期を過ぎ、明治維新に至る。明治8年(1875)には、寺院子弟の専門学校として「学仏場」を広島市胡町に開学。明治16年(1883)2月の調査では、本願寺派寺院は旧安芸内399ケ寺、備後国内259ケ寺、門徒は安芸132.296戸、備後45.788戸を数えた。
昭和に入っても、安芸門徒は広島の宗教人口の大半を占め、組織変更を繰り返した学仏場から昭和23年(1948)新制崇徳高等学校となる。
同年には、進徳女子高等学校も開学している。
昭和51年(1976)の中国新聞社の調査によると、広島県民の57%が真宗門徒で占められていた。
昭和後半から平成の世になると、宗教人口の減少によって中山間部では門徒が減り、廃寺が増えるようになった。
門徒の高齢化、後継者不足、新たな門徒の獲得が現在の課題となる。
以上が安芸門徒の成り立ちと、現在の安芸門徒の課題であります。
歴史と共に歩んできたのが浄土真宗の門徒であります。
その遺産によって私たちは支えられているのです。有難いです。
何とか恩返ししなくては申し訳ありません。
私の残りの人生でそれを模索して生きていきたいと思います。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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