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阿弥陀を無碍光仏という

皆さま、おはようございます。

今日という日をまた迎えさせていただきました。毎日当たり前のように思えることですが、決してそうではなく、また二度と無い一日でもあるんだとしりたいものです。


貴重でありながら、私の思い通りにはならない厳しい日常ではありますが、意味が必ずあるのは確かであります。だからこそ生きてみることで、その意味を知ることができるのです。


阿弥陀さまは危なっかしい私をいつも見ていてくださり、それに対して私というのは「見守ってください」などという身勝手な生き方をしていますからね。


仏は助ける、私は助かる


どこどこまでいっても摂取不捨であります。

私が助かるのは、私が容されるということなのです。

「人を救うことは、人を容(ゆる)すことであり、私が救われるということは、私が容されることを知ることである」[土井忠雄和上]


阿弥陀さまのおはたらきを讃えて無碍光仏と言います。無碍(むげ)とは、さまたげ、さしさわりがないということを言います。

阿弥陀さまのお救いのはたらきに、妨げ、差し障りが一切無いということ、凡夫[死ぬまで煩悩から離れられない者]の罪も悪業煩悩(あくごうぼんのう)も救いの妨げにはならないということです。


どんなに悪いことをした者でも救わずにはおれないというお慈悲の仏さまであります。だからといって悪業を勧めているわけではありません。凡夫たる者はすぐにここを自分の都合良く受け取るから悲しいのだが。比喩であります。

阿弥陀さまは罪の我が子が捨てられないのです。


罪悪が責められ裁かれたら凡夫たる私は救われません。煩悩で出来ている凡夫たる私に、煩悩を断ちなさいと言われたら決して救われません。

南無阿弥陀仏の親たる阿弥陀さまは、大悲の涙の中にすべてを容(ゆる)し、そのまま抱きとられて【そのままを我にまかせよ必ず救う】と私に届いてくださる仏さまであります。


受け入れることのできる者をいの一番に、はねつけ、受け入れられない者を見捨てずにあの手この手をかけて信じさせて救うぞのおはたらきをくださるのです。救いのすべては他力であります。


ながながと 迷いの夢にうなされて 覚めてうれしや 親のふところ


私が救われるということは、阿弥陀さまの大悲の涙の中に、私のすべてが容(ゆる)されていることを知ることでしょう。それを知らずに勝手に救われると思い込みことはまさに親心知らずということでしょうか。


昨夜は埼玉西武ライオンズのエース今井達也投手の圧巻の投球(2安打17奪三振完封勝ち)

に心踊らされましたよ。あの松坂大輔さんの記録を塗り替えたそうですね。まるで大谷翔平さんのような見事な投球でした。未来の大谷翔平二世を見たような気がしました。


さまざまなことに出会いながら、今日という日を過ごして行きます。皆さまもかけがえのない今日を大切に過ごしてくださいませ。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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