忘却は世の常というけれど
- 超法寺の住職

- 1 時間前
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またスーパーでスマホを置き忘れてしまいました。
もう何度目でしょうか。おかげさまでサービスカウンターで保管されていたので良かったですが、この歳でこのような状況です。病気でしょうかね。
確かに今月は忙しくしているので体力的にも厳しくなっているにでしょうが、恐ろしいですよ、世の末が。
忘却は世の常と言いますが、老いが進めばどんどん忘れていくのです。
病のなれば身内すら忘れいく私であります。
だからこそ、私が忘れても問題とならないものをきちんと身心にいただいておくことが肝要だと思うのです。忘れてもいいものとは何か。
簡単なようで簡単ではない我が人生であります。
生きていくことは老い(老いるショックは一生涯)・病(入院を必要とするもの)・
死(縁が尽きれば今日でも明日でも待ったなし)であります。
私が死んでいかねばならないものだと思って生きていますか?
若い、元気とか言うものは命の保証とはなりません。
たまたま生きているのであって、娑婆の縁が尽きれば終わっていくのです。
『歎異抄』には、
名残惜しく思えども、娑婆の縁尽きて、力なくして終わるとき、かの土には
まいるべきなり。
とあります。これは亡き我が父が人生最後にしてくださった法話であります。
かの土とはどこなのでしょうか。死ねば仏と言いますが死ねば皆が仏となっていくのでしょうか?
今日も墓前の法要を勤めてきましたが、さまざまな墓地がありました。
塔婆が立っているもの、無いもの、どこに違いがあるのでしょうか。
塔婆には盂蘭盆施餓鬼会と書いてありました。
施餓鬼とは何か。仏さまの世界では無い、地獄の餓鬼道のことでしょう。
じゃあ、死んだだけでは仏になることはないのでしょうか。
生まれてきた時に泣いていた私が、死ぬときも泣いていてはいけませんよね。
仏教はそこを問うていく教えです。そこの解決さえ済んでいれば、忘れてもいいのです。
忘れても、忘れてくださらない人がいてくれますから。
それが南無阿弥陀仏の仏さまなのです。
わからないまんま、不安なまんま、南無阿弥陀仏の仏さまは、忘却する私をお摂めとっていくのです。まかせよ、救う。
まかせられる私なっていくことが大事なのです。
それには若いうちに、元気なうちに仏縁に遇わせていただくことが大切なのです。
阿弥陀如来の仏は、信じさせて、称えさせてお救いくださるのです。。。。



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