阿弥陀さまに遇うこと
- 超法寺の住職

- 3月4日
- 読了時間: 3分
宗教を旨に生きることは本来は争うことではないはずなのに人間がすることによって常に争いの種になっているのが悲しいことです。きっと神仏はお嘆きでしょう。
世界の警察として脅威から自国の安全を守ろうというエゴが今回の紛争となっている気がしてなりません。憎しみが憎しみを生んでいる。
人は娑婆の縁が尽きればいつでもこの命を終えていかねばならないというのに、どうしてたった一つの命を奪い合うのだろうか。
今も地球上で多くの人が泣き、悲しみ、苦しんでいるのです。
人間の欲の暴走です。今回のアメリカ、イスラエルのイランへの砲撃は表面上と違い、中国が見え隠れしている。イランから石油を購入していた中国。ベネズエラからも中国は購入していたがあの一件で買えなくなっている。
中国をあまりに追い込んでいたら狂気が暴走する気がします。
この度は西本願寺門主、専如さまのご親教から【聞法によって変えられていく私たち】を紹介します。
私たちは阿弥陀如来のご本願を聞かせていただくことで、自分本位にしか生きられない無明の存在であることに気づかされ、できる限り身を慎み、言葉を慎んで、少しずつでも煩悩を克服する生き方へとつくり変えられていくのです。
それは例えば、自分自身のあり方としては、欲を少なくして足ることを知る「少欲知足」であり、他者に対しては、穏やかな顔と優しい言葉で接する「和顔愛語」という生き方です。たとえ、それらが仏さまの真似事といわれようとも、ありのままの真実に教え導かれて、そのように志して生きる人間に育てられるのです。このことを親鸞聖人は門弟に宛てたお手紙で、「(あなた方は)今、すべての人びとを救おうという阿弥陀如来のお心をお聞きし、愚かなる無明の酔いも次第にさめ、むさぼり・いかり・おろかさという三つの毒も少しずつ好まぬようになり、阿弥陀仏の薬をつねに好む身となっておられるのです」とお示しになられています。たいへん重いご教示です。
親鸞聖人は、聞法を重ねることによって次第に、少しずつであれ私たちは生き方が変えられていくと語られているのです。
僧侶は聞いているようで聞くことをおろそかにしていると語る布教使は多いです。
自らが仏法聴聞する姿勢こそが今問われているのではないでしょうか。
きちんと聞いて、素直に受け止めて、仏さまの真似事をするような生き方になっているかが常に問われているのではないでしょうか。
私も実家寺にいた時には毎週のように築地本願寺へ足を運んでお聴聞をしていましたが、布教所を開設してからは悲しいかな忙しさに気を取られお聴聞することを怠ってしまっている。お恥ずかしいことです。
南無阿弥陀仏を心の灯火にしながら、親鸞聖人や蓮如上人、先師方々のお言葉を聞いて生きていきたいです。
南無阿弥陀仏、おやすみなさいませ。



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