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読経は亡き人のため?

読経は亡者生者を問わず、すべてのものの功徳となります。


【世々生々(せせしょうじょう)の父母兄弟(ぶもきょうだい)】


親鸞聖人は「父母の孝養(きょうよう)のためとて、一返(いっぺん)にても

念仏まふしたることいまださふらはず」と言われました。


だからと言って、亡き人や先祖のために読経することをやめてしまえと言ってはいません。私たち人間は自分の親や子供、親類や先祖に対して、親しい心や愛情があります。このような愛情は、仏教の立場から言えば限りられたものに対しての執着(しゅうじゃく)であり、それは菩提(さとり)への道とは相反する心であると言われます。


親鸞聖人は、一切の命あるものは皆これ世々生々の父母兄弟であると言われたのです。それは私たちは無始以来、今に至るまで五道を迷い(地獄・餓鬼・畜生・人・天)、憂畏勤苦(ういごんく)の旅を続けてきたのだと、一切智者である仏陀(覚者)は、教えてくださいました。生死絶えずの旅


すべての命は関わりあっていると知らせてくださるのです。


ほろほろと鳴く山鳥の声きけば、父かとぞおもう母かとぞおもう


このように仏教では、すべての命あるものの関係を深く感じさせていただくものでありますから、私の場合、三年前に亡くなった父母、一年前に亡くなった伯母のためと、読経し念仏を申すということは実は仏教の心には反していると申さねばなりません。「葬儀、法事」をして読経する相手が甚だ狭いからであります。


願以回向こそ仏教の精神であります。浄土真宗の教えでもあります。

忘れないでください。

 願わくば此の功徳を以て平等に施し、同じく菩提心を発(おこ)して、

 安楽国に往生せん。


利他の心を忘れてはなりません。

中国の道綽禅師の『安楽集』には、【先に生まれたものは、後のものを導き、後に生まれたものは、又その後に生まれたものを導く】


血縁だけの父母兄弟と見ていくのではなく、できる限りすべてのいのちあるものを世々生々の父母兄弟とながめることの大切さを教えているのです。

せせこまいものの中に見ていくのではなく、広大無辺の慈悲の心を持つ阿弥陀如来のお慈悲を我が思いとしながらお念仏を申すようにしたいですね。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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