死ぬのではなく往くのです
- 超法寺の住職

- 16 時間前
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長文のため途中で記入できずに続投稿します。
正信偈に五劫思惟之摂受(ごこうしゆいししょうじゅ)と、どうやって漏らさず救っていこうかと考え、考え、気が遠くなるほどの行を重ねていかれました。
南無阿弥陀仏を称えさせて救う道を完成されました。
浄土真宗の信心は「はい、仰せのままにおまかせします」と仰せを聞くようにはたらくのです。
でも、現代人はなかなか浄土往生を信じません。
昨今は葬儀もしない、法事もしなくなってきました。その上、お寺に参る機会も無いのですから南無阿弥陀仏の声に出遇う機会も無いときているので阿弥陀さまのご苦労は甚大でしょう。その上、それを伝えるべき僧侶の側も、「浄土真宗の方だけでは無いので浄土真宗の話をするのは控えよう」などと勝手な解釈をして法を遠ざけているなんて話を聞くから寒気がします。
この目に見えるものしか信じない。
明治からの教育は実証主義、経験主義の教育に変わり、見えるもの、触れるもの、自分で確認したもの以外は信じません。
ですからUFOのような存在なのかもしれませんね。
でもどうでしょうか。テレビは見えますか?でも電波は見えませんよね。
受信するものがあればこそ見えるのです。
それと同じです。
お浄土は阿弥陀如来のお作りされた安穏な国土です。
他力のおはたらきは声となって届いています。
南無阿弥陀仏の声が聞こえているということは仏さまがいらっしゃる証拠であります。
親鸞聖人は教行信証の序で「真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」と教えてくださいました。
三界は安きことはなく、諸行は無常であります。盛んなるものは遂に衰え生あるものは死に帰します。死の縁は無量であり、人の命のはかないことは夢まぼろしの如くであります。ですから阿弥陀如来は苦悩の衆生(人間)を哀れみたまいて、大悲の本願を起こし、南無阿弥陀仏の名号を与えて私たちを救いたまうのであります。死は私の抱えている煩悩が死ぬのです。私は往生するのです。
阿弥陀如来の大慈大悲のおはたらきによって浄土へ参らせていただいて往生させていただきます。
つまり、南無阿弥陀仏になっていくのです。
皆様に仏縁をくださった方々は南無阿弥陀仏になったことを残された私が知っていくことが肝要なのであります。
そうでなければ、いつまで経ってもこの苦悩から離れられず苦悩のままとなってしまいます。
お寺に参るとはそういう私になっていくために必要不可欠なものだと是非知ってください。南無阿弥陀仏




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