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自業苦を抱える私に気づく

ちょっとしたことで心を乱し、他を傷つけたり、自らを傷つけたりしなくては生きていけないのが私たち人間の姿ではないでしょうか。

この世は無常と口では言いながら、当たり前とか当然とか思いながら今を生きている。


昨日と変わらない一日が当たり前だと思う。

二度とない日々を過ごしているというのに、つい過去を追い求めてしまうのが現実。

「老」も必然、「病」にならないが偶然、「死」なないのが偶然なのです。

たまたまその「縁」でなかっただけであり、この「命」は必ず尽きます。それがいつかはわからないが私の場合はきっと残りMAX20年だろう。それは我が親がそうであったのだから。


そう思えば、この先をどうやって生きていけば自ずとわかるということだ。

そんな呑気に遊ぶ暇などないはずである。

我が使命を果たすことこそが大事であり大切な生き方であります。

他人からは「まだ若いじゃないですか」などと言われますが、それは誰にもわからない。


皆それぞれの「命」があるからです。

ただ私がすべきことは、この入間市で親鸞聖人が歩まれた他力念仏の道をただひたすら歩んでいくことであります。

仏法をお聴聞する中での日暮らしをしていくことが一番の安穏な道であるということを一人でも多くの人にわかっていただくことです。


おかげさまで毎月何名かがお寺に電話をくださり、予定が合えばご住職にお会いしてみたいとか、法話会に行ってみたいですなどと言われますが、そういう人は残念ながら実際にお寺に来る人はいないのです。来る人は有無も言わさずお寺を訪ねて来るのです。


蓮如上人はおっしゃっています。

暇をかぶりて聴聞すべし」と。

暇があったらという人では難しい。

暇は作って聴聞するものだからです。

そこに真剣さがあるかどうかが問われているのです。来る来る詐欺があまりに多いのが悲しい。あまり自身が地獄を抱えながらの人生であるという認識がたらないのでしょうか。

それとも•••••。


私はお寺の長男として生まれ生きてきましたが、真剣にお聴聞するようになったのは無常をど真ん中で知らされた時でした。

大阪の安方先生が布教使の研修会で、「どうも皆さんは布教の場に立つことばかりに一生懸命でお聴聞の場に座ることが足りていない気がしますね」と言われて愕然としました。

それから本当に一生懸命に築地本願寺の聞法ホールにお聴聞のために足繁く通ったものです。


それでも「命」をかけるほどに真剣に聞くようになれたのは愛犬の突然死に遭ったことでした。あれほど涙し、悲しみに暮れ、生きていく気力を失ってしまうほどの悲嘆にくれたことはありませんでした。南無阿弥陀仏を称える毎日でしたが身についてはいなかった。むしろ私はお念仏というものを御守りのようなものと捉えていたようでありました。


お恥ずかしいことでした。

袈裟衣を身にまとい読経をし法話をしてきた自分は実は何も阿弥陀如来のお心がわかっていなかったのです。他力のつもりが自力で一生懸命生きていただけだったのですね。

改めて『歎異抄』第二条を読みますと、「いづれの行もおよびがたき身なれば」と、おっしゃっています。これは他人のことを言われたいるのではありません。他ならぬ私のことだったのです。


「どの行もどの行も積んだけれども、我執を砕いていくことはできません。いずれの行においても我執を砕いていくことはできずに、人生の大きな課題の解決はついていません」という問題が出されているのでした。


ではどうすればいいか、「ただ念仏」ですとおっしゃっているのです。南無阿弥陀仏とお念仏を称えながら生きていたはずなのに根本的なものがわからずの私だったのです。

「自分では行を積まなくても、如来さまのお名前に行が仕上がっているから、ただ念仏なのですよ。いずれの行もおよびがたき身なれば、こちらから行を積んで我執を砕いていくことはできないけれども、南無阿弥陀仏のお念仏の中に私の救いが成就されているよ。


南無阿弥陀仏••••••と念仏申すところ、仏さまの慈悲の心が通ってきてくださって、一緒に乗り越え、乗り越えていく大行が、そこに成就されているよ」と言ってくださるわけであります。

自力ではなく他力です。

そこにただ念仏の世界があるということになるわけです。[梯實圓師のお言葉]


私は愚かにも若い頃、「念仏のような簡単なことで本当に救われるのだろうか。念仏申すということを法然聖人や親鸞聖人はおっしゃているが、お念仏を申すだけで果たしてその悲しみや苦しみを乗り越えていくことができるだろうか。比叡山や高野山で厳しい修行を重ねている人がいて、あのような行をしてこそ初めて人生の課題を乗り越えていけると思い疑問を持ち修行の真似事をしたこともありました。


お聴聞を重ねる中で、「地獄より行き場のない私が、ただ念仏を聞かせていただくのであります。」というように、自分に気づけ、ありのままの人間の姿に気づけとお聞かせいただいたことであります。

我執を砕いていくことはできないけれど、我執を砕くことのできない私であるということに気づかせていただいて、人間の本当の姿を知るということが地獄行きの私に気づかせていただくということでありました。


浄土真宗の教えは難しいとおっしゃられる方は多いのですが、決して難しい教えではありませんよ。だって何もわからない、わかろうともしない我執の人間のために阿弥陀如来は誓願されたのですからね、難しいのではなく厳しいのです。


厳しい世界を生きている私の姿を誤魔化さずに受け取らせていただくのです。だから死ねば仏ではなく、他力の念仏をいただいた時が私の往生が定まる時であります。


蓮如上人も『御文章』に、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし[五帖目]と教えてくださっておらろます。ただ念仏して、阿弥陀如来におまかせしていくだけの私にならせていただくのです。


救われない生き方をする私を救いたいと願いをかけていてくださる仏心に気づかせていただくことで私の生き方は変わります。それは他力本願のおはたらきでありますから。

頭で理解しようとしたら難しいばかりです。

身心で受け止めていくのがお聴聞であります。


私の人生の問題となれたら、暇があったらとか、時間があったらとかは言わなくなります。

超法寺はお参りするのに条件も資格もありません。毎月第4土曜日午後2時から法話会を開催しています。是非一度お参りくださいませ。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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