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聞くことは信心をあらわす御のりなり

桜もすっかり散ってしまいました。

明日ありとおもう心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

親鸞聖人のおっしゃる通りでございました。

今年も桜を見ることが出ましたが来年はどうでしょうかね。

見れたら嬉しいです。またそうでなくても南無阿弥陀仏をいただく私には、

なったところがお浄土ですから安心です。


こういうものの見方は日頃からの仏法聴聞のおかげではないかと思います。

人は、仏法が好きとか、お寺が好きとかいうものですが、肝心の他力の信心を得ることはなかなか難しいのではないでしょうか。

常に仏をこちらに置いて物事を考えようとしてしまう。

任せるとは、こちらを仏に置くことを言います。

聞いて忘れて 忘れて聞いて わたしゃ籠耳 お慈悲の水に今日も

一日ざぶりと浸かり ご恩喜ぶしあわせものよ


この境地が大事でしょう。

往ったことのないお浄土に参らせていただく私はこの世の命を終える時、「やっと往ける」と喜んでそうなれるか言えば、正直難しいのではないでしょうか。

よく、「私はもう何も思い残すことなどない」いう人がありますが、実際にはなかなかそうならない現実もあるのではないでしょうか。

本音と建前が違うのがお互いの正直なところでしょう。


往きたくないものを仏が「そんな気持ちはとっくの昔に知っていたよ。そんな心に縛られ持ち合わせていない、そんなあなただから必ず救いたいと、この阿弥陀如来は救いを完成させたんだよ。何も心配はいらないよ。まかせなさい、必ず救うから。」

と誓われ、その誓いが今私に届いてくださっています。


既に私の本性を見抜かれた上に、そんな私を必ず救うといわれる仏さま。

その阿弥陀さまのお救いの確かさを聞かせていただいたからこそ、この揺れ動く私の心に大きな安心をいただくのです。


移ろいでいく、私の心で安心するのではありません。

阿弥陀さまのお救いの確かさを聞かせていただいたから、本当の安心を得ることができたのです。


浄土真宗のお救いは、信心が要と、大事にされてきました。


この信心は私で勝手に信じる心ではありません。

阿弥陀さまによって、この私を必ず救ってくださる確かさを聞かせていただいたところに、大きな安心をいただくことができたお心です。

これこそが浄土真宗・阿弥陀さまのおすくいです。


お勉強もいいけどお聴聞抜きでは浄土真宗はわかりませんよ。

ノートも何もいらないよ、聞く耳があればじゅうぶん。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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