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私の人生に「ケリ」をつけるには

秋季彼岸会が近づいてきましたね。

彼岸は日本独自の仏教行事です。

「暑さ寒さも彼岸まで」と言われますが、近年では彼岸を過ぎても残暑が残り、台風が何度も日本へやってくる中、冬到来となりますね。


しかしながら、先人たちは暑さ寒さが落ち着く春と秋に仏法聴聞をする機会を作ってくださいました。お墓参りがメインではないのです。

我が人生のケリをつける道を訪ねる仏教行事が彼岸であります。


浄土真宗では『仏説阿弥陀経』をお彼岸にお勤めすることが多いです。この『阿弥陀経』は、お釈迦さまが弟子の長老【舎利弗】に向けて説法されました。

内容は、南無阿弥陀仏一筋の道を説かれたお経です。


なんだまた念仏かよ、って言われそうですが浄土真宗は南無阿弥陀仏のお念仏を一心に信じる宗教ですから、当たり前と言えば当たり前なんですよ。そして、「また念仏かよ」って言われる人は大概、お念仏が申されない人だと思います。


お釈迦さまは、「お前の人生は、たとえどんなことがあろうとも、この南無阿弥陀仏のおはたらきがケリをつけてくださる」と、おっしゃっておられるのです。


だから舎利弗の名前を自分の名前に置き換えて『阿弥陀経』を読んでみてください。

このお経が、一体誰に説かれているかがわかりますよ。

そしてお釈迦さまは、私の人生は南無阿弥陀仏のお念仏以外ではケリをつけることはないと説いておられるのです。


南無阿弥陀仏、無量寿如来と名告られた阿弥陀さまは、名前のままに無量の寿命をもって、私たち一人一人の人生の無量の苦と悩みの真っ只中に生きてはたらいておられます。

疑ってみても、はねつけてみても無駄であります。阿弥陀さまは念仏申させて必ず救うと先手の救いの仏さまですから。


素直になることですよ。

私たちは死ぬまで煩悩からは離れられないのですから。煩悩から解放されるのは南無阿弥陀仏を称え、阿弥陀さまの大慈悲心におまかせして寄りかかる他はないのですよ。

ま、ためしてごらんなさい。

私も疑って、背を向けて自力の道を実践してみましたからわかります。


親鸞聖人は、親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、おっしゃっておられます。


ただとは【唯】ということです。

ふたつならぶことをきらうことばなり。

『唯信鈔文意』


また『歎異抄』には、親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。


煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。


このように申されて、親鸞聖人がこの【ただ】という言葉をいかに大切に使っておられたかが伝えられています。


この世が無常であると頭では理解している私たちですが、どんなことが起こっても何も不思議ではないのに、世間はそうでも自分や家族、身内にはそんなことは起こらないと信じて生きているのです。どんなに楽しいことがあっても、それがずっとは決して続かないのに、そうなると不足や腹立ちの心がおきてしまいます。

つまり、私の思い通りにならない怒り、腹立ち、苦しみこそが煩悩具足の凡夫であります。


その私を阿弥陀さまは、「お前の人生、どんなことが起こるかはわからないけど、どんなことがおこっても南無阿弥陀仏でケリをつけるよ、だからまかせておくれ。」と、念仏往生のご本願を立てられました。


ここまで何度も何度もお念仏を申すと言いましたが、南無阿弥陀仏は阿弥陀さまの願いがはたらきが声となっていますから、私の努力では称えられません。おまかせする私にならないと、決して称えることはできないのです。


たまに「私は心の中で一生懸命、お念仏を称えている」などとおっしゃる方がありますが、それは正しくはありません。

例えば私たちが我が親を呼ぶのに心の中で呼ぶでしょうか。違いますよね。

親は「お父さん」、「お母さん」、「パパ」、「ママ」って声に出して呼びますよね。


だって心の中で呼んでみたって聞こえないから気づいてもらえないですからね。

しかしながら仏法聴聞をされない方は屁理屈ばかり一人前になるものですよ。


仏教行事は、亡き人が縁となり我が道を明らかにされて、それに気づいてくれ、そして真の人生を生き抜いてくれ、そして必ずお浄土へ生まれてきてくれと願っておられます。

そうでもしませんと、私たちはなかなか気づくことができませんからね。


どうぞ大切にしてくださいませ。

お寺へ参り、仏法聴聞をする姿を見て、きっと故人さまや、ご先祖は喜んでくださると思います。

おやすみなさいませ、南無阿弥陀仏。

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