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真応寺布教

二年ぶりに、さいたま市大宮区の真応寺さまの法話会へ出向させていただきました。

埼玉組(そ)の寺院から出向依頼をいただけるのは本当に嬉しいです。

今後、この組(そ)で活動をして行く勇気と意欲を持つことができます。


この度は、親鸞聖人のご和讃「高僧和讃」の、

いつつの不思議をとくなかに 仏法不思議にしくぞなき

仏法不思議といふことは 弥陀の弘誓になづけたり

をご讃題にいただかせていただきました。


そもそも在家で修行もせず、仕事を持ち、家族を持ち、趣味をももつ私がどうして

仏のお救いに遇えるのでしょうか。これは仏教の教えにも稀な教えです。

お釈迦さまは、仏は砂の数ほどおられるとおっしゃいます。

その仏は、それぞれのお救いを持っておられます。

ただどの仏もお救いに条件があります。


私たちは死ぬまで煩悩から離れられない身です。

それを凡夫と言いますが、凡夫が仏になることが不思議であるというのです。

しかしながら、世間の人はそう思っていないようです。

「我が家は浄土真宗だから安心です。」とよく聞きます。

また「死ねば仏」というじゃないですかと笑います。

こういう間違ったものの見方が圧倒的なので、他力本願も間違った解釈になっているのです。


お寺にも参らない。仏法(法話)も聞かない。念仏往生と言ってもお念仏を称えない

、そんなことでどうやって往生しようとしていこうとするのでしょうか。

私たち凡夫は自力では決して救われません。

他力本願は、阿弥陀仏のお救いに身をまかせていくのです。

私が頑張ったら地獄が近づく。仏のおはたらきに身をまかせるからこそ浄土に近づく

私であることを決して忘れてはなりません。


阿弥陀仏のお救いは、凡夫を南無阿弥陀仏の大慈悲心によって浄土に迎えるはたらきがあります。「まかせよ、救う」であります。

それが悲しいかな、先に申しましたように、人間は自分が頑張りたいので、自分の都合を大事にして勉強します。

もう阿弥陀さまが全部仕上げていてくださるのにです。

お寺にも参らない。仏法も聞かない。聞いても自分の勝手な論理に固辞してしまう。

勝手に好きだ、嫌いだと。


そのまま・・・・・なのですよ。

聞こえたまま、身をまかせて行くのが他力本願のお心です。

我が親が私にしてくださったように。

私を知り尽くしてくださったお父さん、お母さん。

私に合ったように、あの手この手で思いを巡らせてくださるのです。

素直になれないこの私のためにお念仏を受け取らせるようにご苦労くださいます。


少しずつ、すこしずつ、南無阿弥陀仏を聞かせて、称えさせて、法話を聞くように仕向けてくださるのです。

まるで仏様のように。

少なくとも私の親はそうしてくださいました。

そのお心をこの度、真応寺さまでお取り継ぎさせていただきました。


終わってから、ご住職が、「皆さん、笑顔で帰っていかれましたよ」と言ってくださいました。有難いことです。

皆さまの是非、聞く仏縁を元気なうちにどうぞ。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

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