弥陀をたのむ
- 超法寺の住職

- 2 時間前
- 読了時間: 3分
弥陀をたのめる人は、南無阿弥陀仏に身をばまるめたることなり
『蓮如上人御一代記聞書』
「弥陀をたのむ」というのは、お願いすることとは違います。
どうも我々人間は神仏にお願い事をすることに慣れ親しんでいるように思いますが、
神仏はそのようなことなど微塵も思っても考えてもいないのです。
他者の幸せを願っている存在でありますから、私たちのように煩悩の赴くままに
生きて自分勝手な願いをお願いするなどというもではないのです。
ですから神仏をこちらにいて物事を考えてはならないのです。
「弥陀をたのむ」とは、阿弥陀さまを信ずることであって、『御文章』をいただきますと、しばしば「たすけたまえとたのむ」といううに用いられています。
つまり阿弥陀さまのおたすけ(救済)を信ずることであって、信ずるとは、すべてを捨ててまかせきることです。
すべてを捨てるとは、自己いかなる行為も知識も、さらに自己の信仰すらも捨てることをさしています。
ここであれっと思われた方もいるのではないでしょうか。
信仰も捨てるっておかしくないのかと。
私の信仰は常に正しいということはありません。何故なら統計によると日本人の信仰数は1ではなく2〜3もあるのだそうです。ですからあちこちで自分の都合に合わせて信仰するというのは信仰とは言わないのですね。
阿弥陀さまにまかせきる。これが浄土真宗、これが他力なのであります。
信心は私がおこす信心ではなく、阿弥陀さまの誓願のはたらきにおまかせする
他力なのであります。そのまま、そのまま、受け入れていくのです。
「身をまるめる」とは、身をまかせるということであって、自己のすべてを投げ出してまかせきるという意味です。信ずることの内容を示しています。
弥陀を信ずるとは、南無阿弥陀仏に自己のすべてをまかせきっていることを言うのです。私というはからいは無用なのです。
一切を捨てて阿弥陀さま、つまり南無阿弥陀仏にまかせきる、それが信心であり、念仏の行にほかなりません。
こうなって行くにはこちらに仏を置いてはそうなりません。
手を合わせないとお念仏が称えられない、お仏壇の前やお墓や、何かの前で手を合わせないとお念仏が称えられない、これは浄土真宗の他力のお念仏ではなく自力念仏であります。皆さまは、お父さんやお母さんに声をかけるとき手を合わせていますか?
そのまま声にして呼んでいるじゃないですか。これでありますよ。
願いのままにいただくのです。願いは阿弥陀さまであります。私の側に南無阿弥陀仏を置いたら自力で救いには遇われません。是非お聴聞してください。
人間は60日続けたら習慣になるそうです。習慣になるまで聞かせていただきたいものです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏



コメント