生きている意味
- 超法寺の住職

- 17 時間前
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京都の小学生殺害事件は、最悪の家族による犯罪でありました。
血のつながりも心のつながりも、自分の欲求によって都合よく解釈されてしまうのが
私たち人間の浅はかな生き方ではないでしょうか。
まだ親無しでは生きて行くこともおぼつかない小学生を放って置いて、母は女を優先させてはいなかったのだろうか。そんなことを思う事件だったと思う。
有難いことにも我が母は往生するまで、私の前では母を演じ続けてくださいました。
もちろん六人もの子供を世に生まれさせた人ですから、女であったことは間違いないし父の前では女であったことでしょう。
きょうだいで話したことがありました。
「私はお母さんが女を感じさせられたことはなかったよ」
これは六人全員の意見でした。
たまたまだったのでしょうか。
でも母はいつもやっぱり子供の前ではいつもお母さんでありました。
常に子供を最優先に生きてくれた人でした。
皆が皆ではないのでしょう。ですから親が子を殺し、子が親を殺すことが繰り返されているのでしょう。親の恩、我が子によって親にならせていただけた喜びが感じられない世の中になってしまったらこれは相当悲しいことです。
親は死して尚、我が子を育てる
このような言葉がございます。
意味のないものなどないのです。
生きても死んでも、それぞれがそれぞれに何かを伝えようとしているものがあるように思うのです。
天台宗の開祖、最澄さんは、私には私にしかできないことがあり、あなたにはあなたにしかできないことがある。そうおっしゃっておられます。
「自分はいったい何の為に生まれてきて、何の為に生きているのだろうか?」
疑問ばかりになることもあるでしょう。
フランスの思想家ルソーは、もっとも多く生きた人は、もっとも長く生きた人ではなく、生きていることをもっとも多く感じた人である。このようにおっしゃっています。
ここで言う「生きていることをもっとも多く感じる」というのは、人生の手ごたえを感じると言う意味です。
自分の使命に目覚め、それを全うするという意味ではないかと思います。
私たちは仏さまから、その人ならではの使命を与えられているのではないでしょうか。少なくとも私はそう思っている。どうしてお寺の長男の私が千葉市のお寺を48歳で退職し、埼玉県で新たな都市開教の道を歩まねばならないのか。
ずっと思案しています。何か最澄さんのお言葉を噛み締めてみると、そうしか説明がつかない、そう思うのです。私にしかできないことがある。
そう思えば、辛くとも、不安ばかりであってもやったろうやという思いが湧いてくるのです。
無意味などと悲観的になることなどないはずです。
誰のためでもなく、この私の為に仏さまからのお願いを使命として受け止めて歩んでいこうと思うのです。まだ生きたくて、それでも生きることを奪われた彼の分までも一生懸命生きたいと思う。
南無阿弥陀仏



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