浄照寺布教[宗祖降誕会]
- 超法寺の住職

- 12 分前
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昨日、川崎市宮前区の浄照寺さまの宗祖降誕会の布教(法話)へ出させていただきました。多くの方がお参りさせる中、至福の時間をご一緒させていただきました。
今年は親鸞聖人の853回目のお誕生日でした。
これほど長く世界中の人々から慕われているのです。
あらゆる命を救いたい。
苦悩の命を救いたい。
凡夫が仏になるという不思議。
悲しいかな、人間は楽な方に気持ちが向かうのです。
自分も罪を重ねて生きているのに、自分は許せて、他人は許せないのです。
SNSを見ていればよくわかります。他人が悪いと文句ばかり言っているのです。
修行もせず、かぞくをもち、仕事を持ち、趣味を持っていて一体いつ悟るのでしょうか。死ねば仏ばかりです。ならないものがどうしてなるのか。
それは救わずにはおれないという阿弥陀如来の他力のおはたらきがあればこそであります。自力では凡夫は救われません。それなのに自力でどうにかしようとしている。
help me Buddhaは自力です。
thank you Buddha が他力です。
これがわかれば問題ありませんが、車を見ても必ずと言っていいほど御守りステッカーが貼って入りますよね。名ばかりの他力ではダメなのです。
どんなに素晴らしい仏さまがいらっしゃっても、こちらの都合に合わせていると浄土はどんどん遠くなっていきます。
親鸞聖人のご和讃にも、
報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる 化土にむまるる衆生をば
すくなからずとおしえたり 『高僧和讃』
弥陀の報土をねがふひと 外儀のすがたはことなりと
本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ 『高僧和讃』
極悪深重の衆生は 他の方便さらになし ひとえに弥陀を称じてぞ
浄土にむまるるとのべたまふ 『高僧和讃』
とおっしゃっておられます。
「化土」とは、凡夫(死ぬまで煩悩から離れられない者)を真実に近づけるために仏が設けられた手段のことです。
自力から離れられないでいる雑心の凡夫を、本願他力を信ずる専心によってしか往生できない真実の「報土」にやがて導くために、仮に方便として化現(けげん)されているのが化土です。
源信和尚は、専修念仏が与えられているにもかかわらず思い上がって、そのお念仏に従わず、雑修に心を向けてしまう愚かさを指摘されているのです。本来「眞実報土」に往生させていただく者が、本願よりも自我を優先させて自分の思い描いている浄土に固辞して、そこに満足している誤りをきちんと正すことが大切であります。
そこへの最短距離は仏法聴聞を重ねて行くことなのです。
おろそかにしてはいけません。
今日も明日もわからない私の人生です。これこそ急がねばならないことです。
是非、お聴聞をさせていただきましょう。
南無阿弥陀仏
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