「愚」を知るのは「信」のはたらき
- 超法寺の住職

- 7月21日
- 読了時間: 3分
皆さま、こんにちは。三連休最終日いかがお過ごしでしょうか。今日も暑いですね。
お暇な住職はお寺でゆっくりしながら掃除をしたり荷物を片付けたりしています。
のんびり屋なので、実にのんびりとしています。
さて皆さまは昨日の参院選はいががでしたか?
ちゃんと投票権行使しましたか?
推しは無事に当選されましたか?
私はおかげさまでありました。
汗を流して私たちの生活を守っていただきたいと思います。しかしながらSNSを見ていると不快感満載でありました。汚い言葉で罵る姿には閉口しましたよ。どうして人間はノーサイドと、相手を讃えることができないんだろう。
どうして自分の思い通りにならないと腹を立てるのだろうか。
やはり仏法を聞かないってこうなるのかな。
ボーイスカウトなら、「いやさか」と相手を讃えるのですが、スカウト経験者も少ないのだろうか。むしろ日本人有権者の姿勢が日本国を悪くしてはいないでしょうか。
そんな虚しさを感じているのは私だけ?
人間が人間らしく生きるためには、己の浅はかな姿を知ることができねばなりません。
自分は賢いとか、一流の大学を出てエリートだと思い込んだり、資格を持ちキャリアだ、上級国民だと自負している人は全く自分が見えていないのです。そもそも人間は愚かなもの。
真実なるものに照らされて初めてそれを知ることが出来るのですね。
しかしながら人間という存在そのものが「愚」であるのです。
中国の善導大師が、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)からこのかた、常に没(もつ)し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず」(『教行信証』)
と言われているのも、法のはたらきによって知らされた自身の救われ難い姿であります。
古来より【機の深信】と言われるもので、阿弥陀如来より賜りたる信心によってつまびらかになった私の有り様なのです。
一方、【法の深信】は、このような救われ難い私のために誓願をたてられ、さらに南無阿弥陀仏をそのまま領受した姿を信心と言います。
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どちらも一つの信心の両面を言うのです。
是非大師が言われますように、現にただ今、自身は罪悪深重の凡夫なのであります。[罪を重ね無ければ生きられず、死ぬまで煩悩から離れられません]
罪悪とは、犯罪ということではなく、【貪欲】、【怒り】、【腹立ち】、【妬み】という煩悩を罪悪と言います。
その根っこには【我愛】、【我執】があります。
【貪欲】は、満足しないで限りなく欲を満たしていこうとする。その結果、自身も煩い悩み、他人をも煩らわせ悩ませる。逆に満たされなかったら、怒り、腹立ち、妬む、こういうことを、この世に生まれた時からではなく、ずっとずっと気の遠くなる昔から繰り返してきたのです。私がどんなに頑張って努力しても、煩悩の垢は落ちないと、阿弥陀如来さまは見抜いておられます。
そんな私を哀れみ、そのまま抱きとめて救うと誓われたのです。
人間、人間と言っていますが、法の前では皆凡夫であります、愚かな凡夫であります。
親鸞聖人はご和讃に、
弘誓のちからをかぶらずは
いづれのときにか娑婆をいでん
仏恩ふかくおもひつつ
つねに弥陀を念ずべし
阿弥陀如来の真実に出遇わなければ、いつこの苦悩の世界を出離することができただろうか。
この世に生まれたのは、しかも人間として生まれたのは、この娑婆世界を出るためです。
娑婆を出たところが【浄土】です。
浄土往生こそ、私がこの世に生まれた本懐(ほんがい)であります。
聞いて忘れて 忘れて聞いて
わたしゃ籠耳 お慈悲の水に
今日も一日ざぶりと浸かり ご恩よろこぶ
しあわせ者よ (渡辺尚爾師)
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏




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