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悪人こそ救いの目当て

更新日:13 分前

先日お寺へ相談に来られた方から、浄土真宗は「悪人正機」だから安心ですよね、と言われて愕然としました。これが世間の浄土真宗へのイメージなのでしょうか。


「悪人」=犯罪者、そんなところなのでしょうか。そんなイメージで捉えられてしまいますと本質は見えなくなります。だから昔から「死ねば仏」と言われるのでしょうか。


あなたは「悪人」でしょうか。

こう聞きますと、大概の人は笑います。

つまりそれほど悪いことはしていないと思ってはいないということなのでしょうか。


仏法に出遇いますと、この論理が崩壊します。

「じゃあ聞かない方がいいですね」と言われそうですが。

改めて親鸞聖人が「悪人正機」について、どのような解釈をされているのか紹介します。


先ず『広辞苑』を見てみると、「阿弥陀仏の本願は悪人を救うことが目的であり、悪人の自覚を持つ者こそ往生するにふさわしい機根であるという説」と記されています。


また『歎異抄』第三条には、

善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。

【善人でさえ浄土に往生することができる。まして悪人はいうまでもない】

有名なお言葉ですが、この真意をきちんと理解されている方はそう多くないと思うのです。


なぜならば、自力で修めたによって往生しようとする善人よりも、自分の罪業と無力さに深い自覚をもて悪人こそ、阿弥陀仏の救済の対象であるからです。


救いは阿弥陀仏の人間を救おうとする【本願】によるものであり、人間側の努力によるものではない。

これこそが親鸞聖人が教えてくだされた絶対他力であります。


親鸞聖人の強調された他力本願の道は、絶えず罪を重ねていかなければ生きてはいけないという私たちのありのままの姿を責めもせず、裁きもしないのであります。だからもちろん「あなたは信心が足りない」などと叱責されることもないのです。


ただ純粋に阿弥陀仏の【本願】を信じていくことができれは間違いなく救われていくのです。

私たちは阿弥陀仏に寄りかかって生きていけばいいのです。もし油断ならない仏さまなら「さっと」よけてしまい、私が倒れてしまうこともあるのでしょう。しかし、そのような心配はいらないのです。


浄土真宗本願寺派前門主、大谷光真さまは自らの著書『世の中安穏なれ』[中央公論新社]において、

浄土真宗では悪人でも信心一つで救われると説きます。ここでいう「悪人」とは法律や道徳に反する一般的な意味での悪人を除外しているわけではありませんが、より正確に言えば、自分の力ではさとりを開くことのできない煩悩を持った人間の自覚を表しています。


自分を善人の側において他の人を悪人と眺めるのではなく、自分自身の問題として問うていることが大切です。


また「救われる」という意味は、この世で罪が許されるとか罪が消えるということではなく、罪を持ったままでの救いということです。


あえて言えば、罪を背負ってしっかり生きるようになるということです。

なお、ただの悪人ではなく、阿弥陀如来の救いを信じる悪人が救われるのです。


このようにおっしゃっておられるのです。

いかがですか。イメージは違うでしょう。

昨今問題になっているネットでのSNS投稿でさえも【煩悩具足の凡夫】という自覚が欠けてしまっているのではないでしょうか。私もその一人だと思いますが、自分の良識を刃にして責めたり裁いたりしているお恥ずかしい生き方であります。


そこに気づいている日暮らしと、そんなの当たり前なんだ、指摘されて文句を言われて当然なんだ、自分は間違っていないんだ、そんなものの見方はいずれ我が身に返ってくる危険性を忘れてはならないと思います。

したくはなかったのに犯してしまった犯罪。

さまざまな要因があったことでしょう。


今やネット社会。どんなに反省して謝罪しても当事者だけではなく、興味本位でSNS投稿を見て真相はそっちのけで糾弾され続けるという人間の悪意の欲に人生を翻弄されてしまうという弊害は実はごく普通に、そして身近なものとして関わっているんだということを、仏法を通しながら我が身の罪をしっかりと理解して生きていきたいものだと思います。


さてあなたは、それでも悪人ではありませんか?

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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