人生の歩み方
- 超法寺の住職

- 3 日前
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私は仏教は嫌いという人が多い方がありますが、そもそも仏教とは関係ないなどと思っている人も多いでしょう。
しかし、そういう人たちも皆、縁起•無常•無我の生命を生きているのです。
つまり知らず知らずのうちに縁起•無常•無我の中に生かされている。好きだとか嫌いだというあなたも私も、この法の中にあるのです。
この縁起•無常•無我の法を悟れば仏になります。
お釈迦さまはこの法を悟り、法に目覚めて仏さまとなられ、全てのものに、この法に目覚め自分と同じ悟りの身(仏)になることを勧められました。そう仏教とは仏になる教えなのです。
そもそも私というものは、他によって生まれ、他によって生かされています。
自分の力は限りなくゼロに近い。それなのに私が頑張ったから•••と自分を誇る。
しかしよくよく考えてみると、全ては他によって私というものがあるのです。
この縁起の道理•法が本当に知られたならば、他のしあわせ、他の救いを願うのは当たり前のことじゃないですか。
我が子によって(縁)親になったのであれば、親が我が子のしあわせを願うのは当たり前。
我が親によって子どもになったのであれば、子どもが我が親のしあわせを願うのは当たり前。
このつながり、縁が無限に広がっていくのです。
地球上の全ての生命[十方衆生]と、全ての人々とのつながり、縁の中に私が生まれ、私が生かされています。それを知ろうが知るまいが好もうがはねつけようが、それが事実なのであります。その全てのものの存在を縁として、私というものがあるのですから、人間はその全てのもののしあわせを願う仏になることを、究極の目的として生きていくことこそが人間として正しい生き方なのです。
「世界が、全体しあわせでなければ、個人のしあわせはあり得ない」(宮沢賢治)
頭で知るを知識という。
身心で知るを智慧という。
しかしながらお恥ずかしいかな、この身と心は、この法、道理に反して動きます。だから常に苦悩が絶えません。
これを罪悪の凡夫、煩悩具足の凡夫と言います。
他によって生かされていながら、自分の力で生きていると思い上がり、自己中心の我執•我欲の心で生きているのです。老いていく人生なのに、長生きすることばかりに執着し、病気になる食生活、ストレス、飲酒喫煙を止めない生き方、それなのにいざ重い病気になると悲観する、そんな生き方。どれだけ周りの人たちに迷惑、嫌な思いをして来たのかを常に忘れて生きている。その上で目先の快楽ばかりを追い求めて生きているのです。
無我なのに、今の自分を確かなものと思い、自我を主張し他を傷つけて、自らも傷つきながら苦悩の人生を生きているというのが、人間(凡夫)の有り様なのです。それを他には指摘しているのに、いざ自分は常に置き去りにして生きているのですね。
そんな生き方の人間に、法に目覚め仏になることを勧め、仏になる道を仏教は説いているのです。名ばかりの仏教ではいけません。
仏教というならば目的を見失ってはいけないのです。
↓
仏になる道
一つ、自ら修業をしこの道理を学び、自己中心の煩悩を断ち切り仏になる道[自分の力で悟りを開くので自力の教え]。この世で仏になるので聖道門と言います。
二つ、全てのもののしあわせ、全てのものの救いを願う仏さまを、お念仏(南無阿弥陀仏)として我が身にいただき、その仏さまの力で、浄土に生まれ仏になる道。[仏さまの利他の力によって仏になるので他力の教え]。浄土にて仏になるのですから、浄土門といいます。
自力の道は、煩悩を捨て去ることを求められますから大変厳しい道であります。仕事を持ち家族を持ち、趣味など持っていたら到底悟りなど得られはしません。つまり執着しては無理だという厳しい道です。
他力の道は、悟りを求める心もなく、修業する力もない。自分中心の欲の心で罪悪を行じ、苦悩の人生を歩むことしかできない。それを凡夫と言います。
その凡夫たる私の姿を知見された仏さまが先に動いてくださるのです。先にはたらいていてくださるのです。私より先に仏さまが相(すがた)を変え、私たち人間が受け取りやすい、称えやすい南無阿弥陀仏という相となって凡夫をお救いくださるのです。
「まかせよ、救う」のはたらきこそが他力本願の道であります。
待っていても動かない私たち人間だからこそ、仏さまが先に動いて、はたらいて目覚めてくれよ、気づいてくれよ、まかせてくれよ、安心してくれよと喚び続けていてくださるのです。
浄土真宗の仏になる道は、仏さまの仰せのままに、私も浄土に生まれ仏になりますと今を生きていくのです。[天国じゃありませんぞ]
その上で、必ず仏になる人生を歩むのです。
ご恩報謝にそれぞれに分を尽くして他人様(ひと)のお役に立てるようにと生きていきます。
自分勝手な生き方をなるべくしないように、他人様に喜んでいただけるように努めていくのが仏と一緒に人生を歩んでいくことなのです。
み仏の、誓いを信じ、尊いみ名(南無阿弥陀仏)を称えつつ(ながら)、強く明るく生きぬきます。 『浄土真宗の生活信条』
人間は63日継続すれば習慣になると言われます。できることからコツコツとやってみましょう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏




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