快楽をむさぼった人間が堕ちる地獄
- 超法寺の住職
- 2 日前
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近年では、「不倫」があまり糾弾されなくなったように感じますが、仏教では地獄へ堕ちるタネとして邪淫(じゃいん)の罪を挙げています。この世で裁かれなくても、やはりやったもん勝ちはあり得ないのであります。
〈熱き赤銅(しゃくどう)の汁あって、かの罪人をただよわす(中略)よるすべなく救いもなし〉
↓
【衆合地獄】(しゅうごう)
衆合するところに特徴があります。
SEXに関する罪人のほとんどは、ここで扱われます。
元々は暗黒の世界でした。
しかし全体が黄金色に輝いています。
その輝きは妖しい誘惑を感じさせます。
光源は「河」です。大河が光っている。
その河は水が流れているのではなく、高熱で溶解した銅汁であります。
巨大な溶鉱炉の湯だまりから真っ赤に溶けた溶銑(ようせん)が噴出し続けているようなところです。
罪人は、その大河に投げ込まれる。
落ちていくにつれ、みるみる熱気が迫ってくる。罪人は、めまぐるしく思案を巡らす。
一瞬の閃光で身を焼かれるかと。
しかし着河した刹那に、言語を絶する猛熱に身は包まれたが、不思議に身体は燃えない。
燃えずにただ、熱の責めが続いていく。
苦痛に身悶え、もがきながら太陽が地平線に姿を現した時のように、半身だけ出して高熱の銅汁の中で苦しんでいる。
ある者は石のように沈みながら苦しんでいる。また、手を上げて泣き叫んでいる者もある。
同じ苦しむならと罪人は思う。
独りは嫌だ、誰が一緒に苦しむ相手が欲しい。
お互いに抱き合って苦を分かち合いたい。
地獄に堕ちても尚、自分の都合ばかりを考えるのが亡者の浅ましい姿なのです。
自分さえ良ければと快楽をむさぼり続けた報いが死後も必ず続いていくのです。
「死ねば仏」
そんな都合の良い言葉など地獄では一切通じないのであります。地獄は「言葉の通じない世界」と説かれます。『往生要集』に源信和尚が紹介しています。
仏法を聞かず、欲望のままに生きていくと死んでもなお苦悩からは逃れられないのですね。
仏さまの願いは、そんな愚かな生き方をしなくては生きていけない私のために仕上げられてあります。それなのに私の欲望を満たすためだけに心が動き、都合よく生きていこうとして自ら地獄を作りながら生きているのです。
皆さまのご先祖は、愚かな生き方がまるで真実のように捉えて仏に背を向けて生きているのです。
聞いてくれよ、聞いておいてくれよ、と常に私を照らし続けながら呼んでいてくださいます。
皆さまがお考えの地獄の釜が開いて•••••は、そんなに甘い世界ではございませんぜ。
笑って聞いているとするならば、それは他人事として捉えているからに他なりません。
私は幼い時に、嘘をつくと父が母に「おい、ペンチを持ってこい」と言った。すると父は、「おい、ベロを出しなさい」と叱る。
恐る恐る舌を出すと父は、ペンチで舌をギュッと挟むのです。それはそれは恐ろしく痛い。
泣き出したのを思い出します。
父はそうやって嘘をつくことを戒めていました。
では私は嘘をつかない人になったでしょうか。
いやいや悲しいかな、未だに嘘ばかり自分の都合の良い中で嘘をついています。まさに地獄行きを私が日々作っているのですね。お恥ずかしいですね。これが私たち人間の本性です。
阿弥陀如来さまは、それをよくご存知の上であらゆるものを救いたいという願い【他力本願】を仕上げているのです。
修行の真似事もできない私を我が子のように思いながら、あの手この手をかけて目覚めてくれよ、阿弥陀にまかせて南無阿弥陀仏を称えながら生きてくれよと、はたらき続けておられるのです。
皆さまがお盆を迎えるにあたり、阿弥陀さまの願いを南無阿弥陀仏に込めて届けてくださる仏縁は、もしかしたら皆さまのご先祖が諸仏のはたらきとなり届けていてくださるのかも知れませんよ。
そう思えたらきっと、お盆参りやお墓参りが素晴らしい仏縁になるのではないでしょうか。
最後に、この世でしあわせになれない人が、死んでしあわせになることなどありはしません。
しっかり私の与えられた人生を南無阿弥陀仏と共に生きていくことこそが、真の人生となるのです。
自分の欲望のために他の家族を悲しませ苦しめた罰は報いとして死後に受けていかねばならないと、不倫をしている人、しようとしている人は戒めて欲しいものです。
南無阿弥陀仏
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