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後生の一大事

今年も数多くの方が事件や事故によりお亡くなりになられ、またご病気で亡くなられた方もきっと多かったのではないでしょうか。私も縁あって多くのご葬儀に参らせていただきました。そのうち超法寺の門信徒と縁が結ばれた方はあまりありませんでしたが、それでも他寺院のお寺さんが行っても何らおかしくないというのに、私が参ることになったのは、他ならぬ故人さまから呼んでいただいたといつもそう思っています。


当たり前なんかじゃない、きっと仏願のおはたらきがあればこそであったと思い精一杯お勤めさせていただきました。その後も四十九日、初盆、納骨、一周忌と引き続き超法寺へ依頼くだされた方には改めて衷心より御礼申しあげます。

私自身も二年前に両親を相次いで見送る寂しさを経験して、皆さまがどのような悲しみ寂しさを感じておられたのかを痛感しました。やはり何事も経験あればこそですね。


空想で物事を捉えていては本当の意味で悲しみに寄り添うことなんてできないんだなあと感じました。出棺の時、火葬の際にいつも両親の時を思い返しています。

「お母さん、ありがとう。南無阿弥陀仏」

死を他人事ではなく、我が事として捉えていくことの大切さを思います。

死ぬという問題が、今の人々に仏法を求める心をかきたてる原因になるかどうかは、大変問題であります。


浄土真宗では、「後生の一大事」ということを言います。

死んでいく先もわからず右往左往しているのが現実ではないでしょうか。

キリスト教の信仰深い文芸評論家、二松学舎大学教授の佐古純一郎先生が、「キリスト教には、こういう言葉がない。これはとても意味の深い言葉だ」とおっしゃっておられました。

これは宗教を求めるための大きな跳躍台になる言葉です。

故人を見送る私自身がいずれ死んでいかねばならないが、覚悟はよろしいか

こういう厳しい問いの言葉がキリスト教にないのが残念だと言われていました。


これは浄土真宗だけではなく、禅宗にも「無常迅速、生死事大」(むじょうじんそく、しょうじじだい)という言葉があります。生命はあっという間に過ぎ去っていくぞ、覚悟は良いか、ということですお。仏道は決してやさしくはないのです。毎日のように報道される事故、皆様直前まで元気でおられたというのに、子どもも大人も関係なく命を終っていかねばならないのが無常世界の姿なのです。

私が問題にしているのは単なる死ではありません。

生きているということは、いつでも死ねる死を生きているのです。若かろうが、元気であろうが、私の娑婆の縁が尽きれば待ったなしに人生を終えていかねばならないのです。

その覚悟ができている人が実際にどれほどおられるのでしょうか。


自分だけは大丈夫だと油断しているかお念仏が申せないのでしょうか。今日もある、明日も来年もあると思っているからお寺に足を運ぶことができないのでしょうか。

待ったなしの我が命だというのに、実際はそう思う思って生きていないのが煩悩具足の私たち人間の有り様ではないでしょうか。


私もお恥ずかしながら若い時には死など身近ではありませんでした。

27歳の時体調を崩して病院で診察をしてもらった時に、「末田さん、このままでは43で死にますよ」と死亡宣告されてびっくり仰天したのと、その後、愛犬が目の前で車にはねられて死んでしまったことが仏法聴聞するようになれたきっかけでありました。

今となれば、愛犬が私の善知識であったのでしょうね。


人生であれほど涙したことはありませんでした。両親が亡くなった時でもあれほど深い悲しみに暮れたことはありませんでしたから。

このように後生の一大事ということは、仏法を学ぶについて一番大切な問題だと思います。キリスト教の人が、素晴らしい言葉を浄土真宗は持っていると、うらやましがる。改めて「後生の一大事」という言葉が、聞法の中で一体どれだけの意味を持っているのか、どれほどの重さであるか、今若くて元気な若者にはよくよくかんがえて欲しいと願うばかりです。もちろん若くない人たちにも仏法聴聞をお勧めしたいですね。いっぺん聞けばそれでいい、そんなものでhあありません。

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