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広大無辺を知れば

皆さま、こんばんは。

あっという間に日が暮れていきます。

無常迅速とはこのような姿ですね。

それでも悲しいかな、私は明日もあると思っている愚か者です。宗祖が教えてくださるというのに先送りにしています。


昨今の米騒動は生活の問題。

亡き恩師、豊島学由師は、「食わぬば死ぬは生活の問題。食っても死ぬは人間の問題」と仰っしゃいます。


お念仏を申し、南無阿弥陀仏の中に生きる私はどうあるべきかを問うお言葉ではないでしょうか。皆さまはどのようにお聞きしますか。

お念仏を申されない人には直接は関係ないのかも知れませんが、お念仏を申す人はどうあるべきかを親鸞聖人のお師匠、法然聖人はこのように申されておられますのでご紹介します。


「問うて曰く、称名念仏申す人は、みな往生すべしや。答えて曰く、他力の念仏は往生すべし。自力の念仏はまたく往生すべからず。問うて曰く、その他力の様いかむ。答えて曰く、ただひとすじにわが身の善悪をかえり見ず、決定往生せんとおもひて申すを、他力の念仏といふ。たとへば•••••大きなる石を舟に入れつれば、時のほどに向ひの岸にとづくがごとし。またくこれは石の力にはあらず、舟の力なり。それがやうに、われらが力にてはなし。阿弥陀ほとけの御ちから也。これすなはち他力なり。」

このように申されておられますが意味がわかりますか。 念仏を申すことは阿弥陀如来の救いの事実がその人の上に顕れている相であります。 だから念仏を救いの条件や手段にするものではありません。

簡単なようでは実は難しい。 【他力の念仏とは、他力が念仏であり、念仏が他力であります】

凡夫(ぼんぶ)とは死ぬまで煩悩から離れられない、悟り(仏)に一番遠い存在。

阿弥陀如来(他力)は、南無阿弥陀仏という念仏に成就され凡夫に与えられる。この南無阿弥陀仏の力にてよってのみ往生が定まるのです。

だから一般的な「死ねば仏」は、正しくない。

私に気持ちがいい受け取り方は皆、地獄行きの沙汰となりうることを再認識したいものです。

口に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏申すまんまが阿弥陀如来の本願力の舟に乗せられているのですね。忘れないようにしましょう。

ただ念仏のみぞ まことにておはします

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お前を決して見捨てることができない親がここにいるぞ。


親のよび声が私に南無阿弥陀仏の声となって今聞こえているのです。親がよんでいてくださるのに黙っていては申し訳ありませんね。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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