寺カフェ開催
- 超法寺の住職

- 9月18日
- 読了時間: 4分
久しぶりの参加がありました。
今回は新規でお二人がお越しくださいました。
ご近所の方がお寺に足を運んでくれて嬉しかったです。
しばらくご相談を希望される方がなかったので寺カフェ開催の意義すら
もうないのだろうかと思っていましたので安堵しました。
新規に地元の郵便局にリーフレットを置かせていただいたこと、また昨年、
入間市のイベントに協賛広告を載せていただいたものを見てくださり、それをご縁に
やはりご近所の方がご相談に来てくれたのでした。
先ずは私の人柄を知っていただくための寺カフェでもあります。
その上で気楽に集える場が超法寺なんだということ、そして何より一番は、浄土真宗のおみのりは誰でもない苦悩の衆生(いのち)に向けられていることを知っていただきたいのですね。
事実と嘘の間で苦悩する私たちのどうにもならないモヤモヤは解決できない問題であります。そのようなモヤモヤは煩悩具足の凡夫たる私たち人間の生きる中でいつも苦悩していくものです。その苦悩を自分のことと受けとめ、ご一緒に苦悩する中に一体のおはたらきとなって歩んでくださるのが阿弥陀如来の願いであります。
私たちはそれぞれの苦悩は理解をしつつも我が人生においてそのまま受け止めて生きていくことがとても難しいのです。
ですから夫婦でも親子、兄弟、友人、仲間でも常に争いとなってしまうもの。
これが国家でも同じであります。自分は正しい、間違っているのは相手だという剣と盾での攻防が煩悩具足の争いの繰り返しではないでしょうか。[おれ我、わたし我]
その姿を見てくださり、真実に目覚めて欲しいとの他力のおはたきこそが阿弥陀如来の願いであります。
決して「責めず、裁かない」、そのままを摂めとっていくはたらきが阿弥陀の所以であります。
親鸞聖人はご和讃に、
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる 『浄土和讃』
と、おっしゃっておられます。
これは、数限りないすべての世界の念仏するものを見通され、摂め取って決してお捨てにならないので、阿弥陀と申しあげる。
味わいとして、念仏(南無阿弥陀仏)の衆生(いのち)を照らす光明のはたらきが、阿弥陀如来の名前の由来であると言われているのです。
ここが他の如来、観音、菩薩方々とは違うところであります。
それぞれの仏さまは素晴らしいお徳を備えておられますが残念ながら「救いに条件」がございます。
阿弥陀如来のおはたらきに出遇いますと、阿弥陀さまの大慈悲心のおはたらきにより頑固な私が少〜しずつ変わっていきます。
本当にちょっとずつ、ちょっとずつではありますが変わっていくのです。
阿弥陀さまを仰いでいくことは簡単に言うと、阿弥陀さまのマネをしていくことなのですね。
そうしますと、おれ我頑張っているから、わたし我一生懸命だからと自分の我を相手に対して振りかざしていくことで争い、揉め事になりますが、阿弥陀さまを仰いで生きていると、あら不思議「あなたがいればこそ」「あなたのおかげで」と、相手をリスペクトしていく私に変わらされていくようになるのです。
人間は誰も一人では生きられない。
以前のブログでもご紹介しましたが、コンビニのたった一個のおにぎり「¥200位?」を作るにはお金を出せばできるかと言えばそうではありません。お米を作る人、お米を炊く人、包装紙を作る人•••••さまざまな人の力がないと、そもそもおにぎりはできないのです。
それが約3.000人のおかげであるというのですね。その表に見えているものだけを本当だとしか見れないのが我と生きている人。
おかげさまにてと感謝していくことを知れば、相手を思いやれる私になることができるのですね。
私も人生で経験しましたが、相手から「あなたには思いやりがない」って言われました。その時の私はまだ阿弥陀さまを仰いで生きてはいませんでしたから、「何でおれだけやねん、お前も思いやりないやんか」って素直に相手に謝ることができずに人生でバッテンをいただくことになりました。
阿弥陀さまを仰いで生きて行くことを知らされた今は後悔ばかりですね。でも今思えばそれに気づかせていただけたことは、あの時の経験が無駄ではなかったと思います。
そうです、そうなのです。
人生には無駄などないのだから。
阿弥陀さまに出遇うとは、鏡のようなものですよ。
争わねば生きていけない、相手を責めないと自分を安心させられない悲しさ、愚かさは真実なる阿弥陀さまを仰いでいくことにより有り難さ、喜びとして転換させられていくのですね。
これこそが他力本願というものではないかと私は思います。
そのようなことをお二人とも寺カフェという場で阿弥陀さまを仰ぎながら語らいの時間を持たせていただきました。
有り難いですね。
また来月も超法寺へ足を運んでくださればいいなぁなどと思った住職でした。
おはようございます。
今日もみ教えを仰ぎながら、お念仏をお称えしながら生きていきます。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏




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