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お釈迦さまが発見された法

仏教をおお説きくださったお釈迦さまは、対機説法(相手の能力や素質、状況に合わせて教えを説く仏教の教え方)でありました。

残念ながら私には相手の能力など見抜く力は無く、分け隔てなく今現在説法(お釈迦さまの教えを経典よりお話させていただいています)として取り継いでいます。


ここに自分の偏見が備わると途端に仏教の教えから逸脱してしまう危険性があります。私がどう思っているかはそもそも問題ではないのです。

何故なら私には真実など無いのですから、なるべく私の側の話はしないようにするのが大事です。


この世においてお悟りを開かれ真実に目覚めた存在がお釈迦さまです。仏・仏陀とならたのです。そのお釈迦さまが発見された法は、不可称・不可説・不可思議の法なのです。称(称える)、説(説くこと)、思議(思うこと)が不可なのです。

言葉すら超越した法なのです。


そのお釈迦さまに、今ここに居る私たちの代表として梵天が、「今、おさとりになって法悦にひたっておられますけれども、世尊よ、私たちにその法を説いてください」と請願されるのですが、お釈迦さまはお断りになられ、しばらく経ったら場所を変えられたのです。すると梵天は懲りもせずにまた、場所を変えられたところに赴いて「そうおっしゃらずに、是非説いてください、私たちはその法に遇わせていただくことによって救われるのですから」とお願いするのですが、今回もお釈迦さまは断られてまた場所を変えられました。さらに梵天は三度目の正直じゃないですが懲りずに「お願いします、説いてください」と懇願されるのです。


するとその時にお釈迦さまは決断されるのでした。そして不可説の法を説くべく如来の道を歩まれたのです。言葉で言い尽くせない法を言葉にしなければ、言葉の世界に居る私たちに法は届かない、そのように決心されて自身の悟りの道から如来の道を歩まれたということです。


如来の道というのは、一人でもこの法に遇えない者が残っていたら、如来として完成しないというあり方に立たれたということです。

浄土真宗のご本尊・阿弥陀如来さまは、鎌倉時代以降は皆、立像です。しかも、おみ足のかかとが飛び上がるように少し上がっているのです。これは十方の衆生を一人も漏らすことなく救わずにはおれないという如来の智慧いっぱいのお慈悲を動的に表してくださっているのです。


是非、お寺に参った時に確認してくださいね。

「本当ですか?」と念を押す必要のないように、実印を押してくださっているのです。実印って大事な書類にだけ押しますよね。

このように仏像には必ず印相があるのです。



阿弥陀さまは私を救うためにご本願通りの実印を押してくださっているのです。その実印のおかげで救われるのです。説き尽くすことのできない法を敢えて説いてくださっている。

だから【静かな仏陀が十方衆生の一人一人のために動的な如来になられた】というご法義が味わえるようになってきたのです。



仏教の素晴らしい世界観をしっかりと学んでいただきたいものです。何故これだけ様々な宗派があるのかは、それだけ様々な生き方をして生きている私たちがいるからなのです。

ですから何でもいいではなくて、私に一番合った宗派を人生の灯火にして生きて欲しいのです。お釈迦さまの心遣いが偲ばれます。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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