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死んで何処へ行く

本師源空命終時 建暦第二壬申歳 初春下旬第五日 浄土に還帰せしめけり

                        『高僧和讃』


百十九首の和讃です。念仏の教えを伝えてくださった多くの人々の中から、特に

インドの龍樹菩薩・天親菩薩、中国の曇鸞大師・道綽禅師・善導大師、そして

日本の源信和尚、源空聖人という七人の高僧を選んで、その教化の恩徳を讃えられたもので、これを順に読んでいくと七高僧の功績とその教えの要旨がとてもよく理解できます。『正信偈』に親鸞聖人が紹介されて賛嘆されておられます。


この祖師がそれぞれの個性を十分に発揮されながら、しかも一味であるというところは、私たちも深く心に留めておかねばなりません。私たち一人ひとりが祖師たちの求められたもの自分自身のことと求めてゆかねばならないということを意味しているからです。

何度も何度も声にして読んでいると、表現の奥底に秘められた親鸞聖人の万感の想いが沁みてきます。親鸞聖人のお師匠でもある源空聖人(法然聖人)の和讃には、臨終の様子や日時も詠まれていて他の祖師のものとは違った趣きを感じられます。


「本師・源空上人がこの世を去られたのは、建暦二年正月二十五日のことであった。この日に、浄土にお還りになったのだ」と、法然聖人の遷化(せんけ)を記述されておられます。浄土に還帰せしめけりの一句に親鸞聖人の想いが凝縮されています。


親鸞聖人は、他の和讃で法然聖人を勢至菩薩の化身とも阿弥陀如来の化身とも讃えておられますが、そこには阿弥陀如来の本願を伝えてくださった方は、その流れを辿っていくと、阿弥陀如来のはたらきそのもののあらわれだと受け止められたのです。


この世に人間としての生命を恵まれ、その与えられた生命を真に充実して生き抜く道、すなわち念仏の教えに出遇えたのは、ひとえに法然聖人のお導きによるものだという感激は、終生、親鸞聖人の心の内に消えることなくあったのでしょう。

同じ念仏に生かされる一味の信心は、人間を一つの型にはめるのではなく、そこに生きる人それぞれの個性を完全に花開かせる力なのです。


それでもまだ死んで天国に行くとお思いですか?死ぬまで欲から離れられない凡夫たる者が死んでも阿弥陀如来の本願に遇うことなしに浄土へ行くことなどありません。地獄(自業苦)しかありません。

ですから阿弥陀如来は一人はたらきで、真実に目覚めてくれよとはたらいていてくださるのです。

大切にしていただきたいですね。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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