宗教の奴隷にならないで
- 超法寺の住職

- 7月19日
- 読了時間: 4分
日本にはさまざまな迷信俗信があります。
どうも宗教というと悪いことの代名詞のような扱いにされています。確かに怪しいものが多いのも事実です。
人間の欲を満たすために宗教の名を借りた邪教が人間世界には常に蔓延っています。
なぜでしょうか。それは正しいものではないからです。21世紀にもなったというのに未だに神頼みが世間の常識であり続けています。
「交通安全」のお守りが本当ならば、カーディーラーで販売されているはずです。
「厄除け」も相変わらず大流行りですね。
こればかりは浄土真宗のお宅にお参りしても見かけてしまうから悲しいです。
他力本願は皆さまにはなかなか難しいようです。おまかせするって私の都合に合わせてはならないものなのですが、どうしても私の欲にまかせてしまうものなのですね。
しっかりお聴聞くださいませ。
私が子どもの頃、21世紀には車が空を飛んでいました。[手塚治虫の世界]
それなのに、[49日の三月越し]はいけないなどと言っている。[シジュウクがミニツク]などと語呂合わせに恐れをなしている。
[1.2.3.4]も[シ]と読むから[死]を連想するから縁起が悪いと受け止める。[ヨン]と読めば良いだけの話だ。
いつまで経っても迷信から離れられないです。
このように正しい教えを聞かない人は迷信俗信•邪教の奴隷となります。日の良し悪し、先祖が祟っている、迷い始めたらキリがありません。
また新興宗教や救いに条件をつける宗教に入信すると、「信心が足りないから地獄に堕ちる」などと脅かされたりして金銭を要求される。
結局、その宗教にこき使われて人生を歩むことになります。人間の欲を満たすことなどしてみても苦しみしか残りません。
そうだというのに、宗教の被害者の会には同じ人が詰めかけているそうです。
「今度こそ大丈夫だと」そう思ってまた騙されているのだそうです。尽きることのない人間の欲望は偽りのものほど蜜の味がするのでしょうか。
またキリスト教やユダヤ教、イスラム教のような造物主の神を信じる一神教の宗教は、人間を神の奴隷にするためでしょうか、神の名の下に正義をお互いが主張し合い常に争いが尽きることがありません。これは皆さまもニュース番組やSNSで知っておられるとおりです。
私の全て[欲から離れられない]を認め、全てを許し、その上で救わずにはおれないという大悲の阿弥陀如来に遇いますと、そういうものから皆解放されます。
本当に自由に自立して、安心して自己の責任において、浄土へと生きて往き、そのまま死んでいける教えが南無阿弥陀仏のお念仏であります。
私のために仕上がってある教えであります。信じられない者を摂めとるはたらきであります。
「仏のことは放っておけ」ではありません。
放っておけないのは仏さまの方なのだから。
わからん私をわからせて、まかせさせていくのが、阿弥陀如来の本願力のはたらきであります。このおいわれをただ、そのまま聞いて受け止めていくのです。
奴隷ではありません。
私のために仏になられた仏さまと一緒に人生を歩んでいくのです。だから孤独感なんかありやしませんよ。寂しくなんてないよ、だって二人三脚ですもの。
『正信偈』には【大悲無倦常照我】とあります通りにいつも私を照らし続いていてくださいます。また南無阿弥陀仏と呼んでいてくださいます。
【我称え 我聞くなれど南無阿弥陀 連れてゆくぞの親のよび声】 [原口針水師]
有り難い世界ですよね。この言葉のどこに奴隷関係などありましょうか。ありませんよ。
そんな教えがあることを皆さまのご先祖が知らしていてくださるって何て素晴らしいことでしょうか。それに是非気づいてください。
そうすれば迷信俗信に心を悩ませることなんかありませんから。
それには仏法聴聞して日々生きていくことです。お金なんか心配いらないよ。信心が足りないなんて言われやしない。
だって私の信心など仏さまは期待していませんから。仏さまの信心をいただいていくだけですから安心ですよね。
おやすみなさいませ。南無阿弥陀仏




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